
フラビオ・ブリアトーレ
人物データ
| 名前 | フラビオ・ブリアトーレ / Flavio Briatore |
|---|---|
| 国籍 | イタリア |
| 出身地 | ピエモンテ州ヴェルツオーロ |
| 居住地 | モナコ |
| 生年月日 | 1950年04月12日 / 76歳 |
| WEBサイト | www.flaviobriatore.it |
| SNS | x facebook instagram |
フラビオ・ブリアトーレ(Flavio Briatore)は、イタリア出身の実業家。2024年6月以降、アルピーヌF1チームのエグゼクティブ・アドバイザーを務めている。2025年5月に当時のチーム代表オリバー・オークスが辞任すると、同氏が担っていた職務を引き継ぎ、事実上のチーム代表に就任した。一方、対外手続き上のチーム代表は、レーシングディレクターのデイビッド・グリーンウッドが務めている。
ブリアトーレのF1における主な実績は、エンストンを本拠とする歴代チーム(ベネトン/ルノー)を率い、通算7度の世界選手権タイトル獲得へ導いた点に集約される。彼は2人のF1世界王者を見出し、育成し、ミハエル・シューマッハ(1994~1995年)とフェルナンド・アロンソ(2005~2006年)がドライバーズタイトルを獲得する原動力となった。
また、チーム運営と並行してドライバーマネジメントにも携わっていたことでも知られる。1993年に「FBマネジメント」を設立し、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリ、ロバート・クビサ、マーク・ウェバーらを支援。1999年には、当時18歳だったアロンソを見出して契約し、その後のキャリア形成に大きな影響を与えた。
一方で、2008年のF1シンガポールGPを端緒とする「クラッシュゲート」を巡り、2009年にFIA世界モータースポーツ評議会(WMSC)から無期限の関与禁止処分(事実上の終身追放に相当)を科されたが、2010年1月にフランスの裁判所がこの処分を覆した経緯を持つ。
主な経歴
若き日のブリアトーレは職を転々とした。出生地近郊で開業したレストラン「トリブーラ」は経営難に陥り、ほどなく閉店に追い込まれた。その後、塗料メーカー「パラマッティ・ヴェルニーチ」のオーナーで実業家のアッティリオ・ドゥットの助手を務めたが、1979年、ドゥットは自動車爆弾事件によって殺害された。
ブリアトーレはその後ミラノへ移り、金融分野で活動。フィナンツィアリア・ジェネラーレ・イタリアでブローカーとして働いたが、同社は破綻。この時期、ブリアトーレは違法賭博関連で起訴され、複数の裁判所で有罪判決を受けた。
服役を回避するため、ブリアトーレは米領ヴァージン諸島へ逃亡。この期間に衣料品ブランド「ベネトン」の創業者ルチアーノ・ベネトンとの関係を深め、1980年代半ばから同ブランドのフランチャイズ展開に関与。やがて米国事業を統括し、約800店舗を管理する立場にまで上り詰めたとされる。
なお、1990年、ミラノ控訴裁判所の命令により恩赦が適用され、刑事責任は法的に消滅している。
ベネトンとの出会い、F1マネジメントへの転身
ルチアーノ・ベネトンとの関係を背景に、ブリアトーレは1989年、商業ディレクターとしてベネトンF1チームに加わった。自身が初めてF1レースを現地観戦したのは、その前年にあたる1988年のオーストラリアGPだったという。
間もなくマネージング・ディレクターに任命されると、1991年にはジョーダンから若きミハエル・シューマッハを引き抜くという先見的な判断を下す。以降、シューマッハを中心とした体制を構築し、1994年と1995年にドライバーズ選手権を制覇。1995年にはベネトンがコンストラクターズ選手権も獲得し、チームは黄金期を迎えた。
複数チームを動かす事業手腕
1994年にはリジェを買収。1996年にはモナコGPでオリビエ・パニスが優勝を挙げた。1996年末にリジェをアラン・プロストへ売却(後のプロストGP、2001年末に消滅)したほか、1996年にはミナルディも一時的に買収し、翌年にガブリエーレ・ルミに売却した。
1996年にシューマッハがフェラーリに移籍すると、ブリアトーレは1997年、ベネトン家との合意のもとでチームを離脱。保有株式を売却し、新たなF1関連事業に乗り出した。200人規模の「スーパーテック」を設立し、1998年から2000年にかけてベネトン、ウィリアムズ、B.A.R、アロウズにエンジンを供給した。
ルノー黄金期を築いた再登板
2000年にはルノーによるベネトン買収を主導し、自身はルノーF1チームのマネージング・ディレクターに就任。再びチーム運営の中枢を担い、2002年からはルノー・スポールのマネージング・ディレクターも兼任した。2005年と2006年にはアロンソがドライバーズ選手権を2連覇し、ルノーもコンストラクターズ選手権を連覇した。
2005年には、当時のF1総帥バーニー・エクレストンおよびリジェの元マネージャー、ブルーノ・ミシェルとともに、F1直下の若手育成選手権として「GP2シリーズ」を創設。ルイス・ハミルトンやニコ・ロズベルグといった後の世界王者を輩出した。同シリーズは2010年にCVCへ売却され、2017年にFIA-F2選手権へと改称された。
Courtesy Of Ferrari S.p.A.
2位ミハエル・シューマッハ(フェラーリ)と優勝したフェルナンド・アロンソ(ルノー)、3位ジェンソン・バトン(BARホンダ)、2005年4月24日F1サンマリノGPの表彰台にて
クラッシュゲートとF1からの追放
2008年のシンガポールGPで生じた不正行為、いわゆる「クラッシュゲート」を巡り、ブリアトーレは2009年にルノーを離脱。その後、WMSCの判断により無期限の関与禁止処分を受けた。
クラッシュゲート事件は、F1史上でも最も明確に意図的なレース操作が認定された事例の一つであり、チーム関係者個人が直接処分対象となった稀なケースだった。
2008年9月28日に開催されたシンガポールGPで、ルノーはフェルナンド・アロンソを戦略上有利な状況に置くため、チームメイトのネルソン・ピケJr.に対し、セーフティーカー導入を狙った故意のクラッシュを指示したとされる。ピケJr.はレース中盤に単独事故を起こし、これによりセーフティーカーが導入された。結果として、早い段階でピットストップを済ませていたアロンソは順位を大きく上げ、最終的に優勝を果たした。
この不正行為が公に問題化したのは翌2009年だった。ピケJr.がルノーを解雇された後、国際自動車連盟(FIA)に対して告発を行い、チーム上層部から故意のクラッシュを指示されたと証言したことが発端となった。調査を経てFIAは、故意のクラッシュは事実であり、ブリアトーレおよびチーフエンジニアのパット・シモンズが事前にこれを把握、あるいは関与していたと認定した。
Courtesy Of Red Bull Content Pool
フラビオ・ブリアトーレ(ルノー代表)とクリスチャン・ホーナー(レッドブル・レーシング代表)、2009年F1中国GPにて
13年を経てF1に復帰
2010年1月、フランスの裁判所は、WMSCが下した無期限関与禁止処分を無効とする判断を下し、法的にはF1への復帰を妨げる制約は解除された。さらにFIAに対しては2万ユーロ(シモンズに対して5000万ユーロ、ブリアトーレに対して1万5000ユーロ)の損害賠償を命じた。
ただし、本訴訟の争点は「クラッシュがあったか」「誰が指示したか」ではなく、「FIAが個人に対して無期限の職業的終身追放を科す権限を、適法な手続きで行使したか」にあり、その判決は、クラッシュゲートの事実認定自体を否定したものではない。
クラッシュゲートの影響は、現在もなお尾を引いている。当時レースをリードしていたフェリペ・マッサは、ピケのクラッシュに起因する混乱の中で行われたピットストップによってタイムを失い、「不正がなければ自分が優勝し、その獲得ポイントによってルイス・ハミルトンを抑えて世界王者になっていた」と主張。F1およびFIAらを相手取り、総額6400万ポンドの損害賠償を求めて提訴するに至っている。
その後、長らくF1の第一線から距離を置いていたブリアトーレは、2022年シーズン開幕を前にF1公式アンバサダーという立場でクラッシュゲートから約13年の時を経てF1に復帰した。
アルピーヌでの再登板と現在
2024年6月21日、ルノー・グループのルカ・デ・メオCEOにより、事実上の古巣であるアルピーヌF1チームのエグゼクティブ・アドバイザーに任命された。さらに2025年5月、オークスの辞任を受け、ブリアトーレがチーム運営全体を統括し、オークスが担っていた職務を引き継ぐと発表された。
Courtesy Of Red Bull Content Pool
チーム代表記者会見で談笑するクリスチャン・ホーナー(レッドブル・レーシング代表)とフラビオ・ブリアトーレ(アルピーヌF1エグゼクティブアドバイザー)、2025年5月30日(金) F1スペインGP(カタロニア・サーキット)
プライベートと評価
ブリアトーレは1950年4月12日生まれ。両親は小学校教員で、若年期には測量分野の資格を取得したとされる。3度結婚しており、レニ・クルム(2004年生まれ)とファルコ・ネイサン・ブリアトーレ(2010年生まれ)の二人の子の父でもある。
このほか、スーパーモデルのナオミ・キャンベルと婚約していた時期があり(2003年に解消)、またスーパーモデルのハイディ・クルムとも短期間交際していた。この関係から娘レニが誕生している。
1993年には、ロンドンにあったブリアトーレの邸宅の玄関が爆発物によって破壊される事件が発生し、IRA暫定派(アイルランド共和軍暫定派)が犯行声明を出した。
パドックや主要メディアで繰り返し言及されるブリアトーレの評価軸は、①ベネトンおよびルノー時代におけるタイトル獲得を伴う組織運営の実績、②クラッシュゲートに起因する処分とその後の経緯、③2024年以降のアルピーヌ復帰と、再びエンストン系チームを実質的に統括する立場に就いた三点に集約される。
価値判断的な表現を排すれば、ブリアトーレは「世界選手権タイトルをもたらした組織運営の実績」と「重大な競技規則違反に起因する処分歴」という相反する要素が常に併記される、F1史において特異なチーム運営者であると言える。