エステバン・オコンとロマン・グロージャン、ピエール・ガスリーの3名のF1ドライバー
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オコンが語るF1へのキャリア:ルクレールらと切磋琢磨した幼少期~宿敵フェルスタッペンとの対決

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幼少期からの幼馴染同士が後に、最高峰フォーミュラ1の舞台で世界の頂点を目指して互いに競い合う。映画のようだがフィクションではない。ルノーのエステバン・オコンがF1へと至る自身のキャリアを振り返り、シャルル・ルクレールやピエール・ガスリーとの出会い、宿敵マックス・フェルスタッペンとの因縁の争いをF1公式サイトに綴った。

「本格的にカートに取り組み始めたのは2004年頃だったと思う。2004年と2005年に北フランスでミニカートのチャンピオンになったんだけど、その時に南フランスでチャンピオンになったのがシャルル・ルクレールだったんだ。名前は聞いたことがあったけど、その時は殆ど何も知らなかった」

フォース・インディアのエステバン・オコンとアルファロメオ・ザウバーのシャルル・ルクレール、2018年スペインGPにて
© Alfa Romeo Sauber F1

「フランス全土から参加者が集まるフランスカップという大きなレースがマニクールで開催されていたんだけど、僕はそこでシャルルと競い合った。僕が勝つ事もあれば彼が勝つレースもあった。何度か激しくやりあったよ」

「決勝ではシャルルとのトップ争いになった。最終ラップの最終コーナーでイン側のラインを取った時、接触してしまった。シャルルはタイヤバリアに突っ込んでしまったためフィニッシュできなかったけど、僕は辛うじてコースに留まり、5位か6位でフィニッシュすることができた」

「優勝したのはアントワーヌ・ユベールだった。僕もシャルルも泣いていたのを覚えている」

アンソニー・ユベールとエステバン・グティエレス、2018年アワードイベントにて
© FIA FORMULA 2、アントワーヌ・ユベールとエステバン・グティエレス、2018年アワードイベントにて

4歳の時にベビーカートを買ってもらった事でキャリアをスタートさせたオコンは、2008年と2009年にフランス国内のカート選手権でタイトルを独占。同じ地域で活躍していた故アントワーヌ・ユベールやフェラーリのシャルル・ルクレール、そしてアルファタウリ・ホンダのピエール・ガスリーらと競い合い、2014年のF1日本GPの事故で亡くなったジュール・ビアンキの父親が経営するカート場で腕を磨いた。

「そんなこんなでその翌年には、僕らの関係はかなり深まっていた。僕は両親と一緒に休日を使ってモナコにある彼の自宅に遊びに行き、ブリニョールにあるビアンキ家のカート場で、ジュール(・ビアンキ)と一緒にカートを走らせていた。シャルルと僕はカートでは何度もレースをしたけど、シングルシーターではそういう機会があまりなかった」

「カート時代のライバルはいつもアントワーヌだった。彼とはかなり昔からの付き合いなんだ。何かに付けて助けが必要な時は、僕の父が彼のメカニックを務めていた。トレーニングも一緒だった。2008年、あの年の僕の最大のライバルは彼だった」

「アントワーヌとはいつも接戦で、フランスカート選手権で競い合っていた。連盟のフランスチームでも一緒で、お互いにかなり近い所でフォローし合っていた。チームにはピエール(ガスリー)もいた」

「彼らとレースをするのは本当に楽しかった。凄いコンペティティブだった。当時の僕らはF1を夢見ていた。よくその話をしていたよ。他には何もなかった。F1だけが全てだった。料理人や宇宙飛行士、メカニックになりたいと思ったことはない。常にF1だった」

ダニエル・リカルド、エステバン・オコン、マックス・フェルスタッペン、セルジオ・ペレス、2017年F1イタリアGPにて
© Getty Images / Red Bull Content Pool、エステバン・オコンとマックス・フェルスタッペン、2017年F1イタリアGPにて

「カートでのキャリアを積むことで、僕は最終的にヨーロッパや世界中を対象とした大きなレースに参加するようになった。マックス・フェルスタッペンと初めてレースをしたのは2010年だったと思う。国際レースに転向した最初の年は本当に厳しかった。何しろカートは凄くタフだった。僕は父と2人きりでビッグチームと戦っていた」

「マックスと僕はコース上では常に接近していた。時には接近しすぎる事もあったよ!2011年のワールドシリーズでもチャンピオンシップを争った。最終的にはマックスが勝ったけどね。イタリアでのレースでは僕がトップだった。僕と彼だけが飛び抜けていた。僕らがライバル関係になったのはこの時からだ」

「2011年の終わりの事だった。当時のマネージャーがシングルシーターへの転向を決めたんだ。最初のテストでチームメイトだったのがアレックス・アルボンだ。お互いにその時がシングルシーターでの初ドライブだった」

「彼はカートで凄く速かったし、幾つものタイトルを獲得していた。僕はカートで彼より1年後輩だったから、最初のシングルシーターのテストの時はアレックスを参考にしていたんだ。将来、僕ら2人ともがF1に出ることになるなんて誰が予想しただろうね!」

シャルル・ルクレールとアレックス・アルボン、2016年 GP2/3 Awards Eveningにて
© Zak Mauger/GP2 Series Media Service、シャルル・ルクレールとアレックス・アルボン、2016年 GP2/3 Awards Eveningにて

「カートとは色んな事が違っていたから、最初は本当に難しく苦労した。様々な事に適応しなきゃならなかったし、レースの方法論も学びなさなきゃならなかった。それでもルーキーイヤーでは何度か表彰台に上がれたし、その翌年はフォーミュラ・ルノー・ユーロカップのタイトルを争う事ができた」

「2013年のタイトル争いの後、ロータスF1のジュニアチームに加わった。僕のマネジメントはFIAヨーロピアンF3に移籍するのに絶好のタイミングだと判断した。プレマのテストに臨んだ。なんとか契約に漕ぎ着けたよ」

「イタリアに住んでいた僕はプレマを家族のように感じていた。最初の3レースの内の2レースでポールポジションを獲得し、毎回表彰台に上がった。すぐさま競争力を発揮する事が出来た。ユーロカップでの2年間を経て、この年は僕のキャリアの中で最も競争力があった年だった」

「レースを重ねるにつれて、マックスもスピードを上げてきて、突如して僕と優勝を懸けて争うようになった。週末に行われる全てのレースで優勝する事を僕らは「トリプルレコード」って呼んでたんだけど、僕らはいつもこれを目指して戦っていた。ある時、彼がそれを達成した次のイベントで、今度は僕がそれを達成した。モスクワでのレースだった」

「結局その年のタイトルを獲得したのは僕だったんだけど、マックスはF1の参戦契約を手に入れた。キツかったよ。彼にとっては素晴らしい成果だけど、そのニュースを見た時は飲み込むのが大変だった。僕はチャンピオンシップに勝ち、かたや彼は3位だった。あの時の僕には翌シーズンのシートすらなかったんだ」