佐藤 琢磨
人物データ
名前 | 佐藤 琢磨 / TAKUMA Sato |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都新宿区 |
居住地 | アメリカ |
ニックネーム | Taku |
生年月日 | 1977年01月28日 / 48歳 |
身長 | 164cm |
体重 | 59kg |
F1デビュー | 2002年 |
WEBサイト | www.takumasato.com |
SNS |
佐藤琢磨は東京都出身の元F1ドライバー。日本人2人目となるF1表彰台を獲得した他、2020年には100年以上の歴史において20名しか存在しないインディ500のマルチチャンピオンに輝き、名実ともに世界のモータースポーツ史に残る偉業を成し遂げた。
ジョーダン、BARホンダ、スーパーアグリでのF1キャリアを終えた後、佐藤琢磨は2010年に北米最高峰のフォーミュラカーシリーズであるインディーカーへの参戦をスタートさせた。2014年には、新設のフォーミュラE初戦に急遽アムリン・アグリからスポット参戦。マシントラブル続出で17位に終わるも、ファステストラップを叩き出し2ポイントを獲得した。
2017年には、F1モナコGP、ル・マン24時間レースと並び世界三大レースの1つと称されるインディ500で日本人初の優勝を成し遂げた。そして2020年の第104回大会では日本人初のフロントローを獲得し、決勝ではシリーズ5度の王者スコット・ディクソンを退けて2勝目の快挙を飾った。
2017年のインディ500制覇の業績を受け、当時首相の安倍晋三は「過去最高位の快挙」と評し、佐藤琢磨にレーシングドライバーとして初めての内閣総理大臣顕彰を授与した。また、同年の日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会は「日本の自動車史に大きく記録しておくべき」との理由でCOTY特別賞を授与、こちらもレーサーとしては初の快挙となった。
©内閣広報室 / 総理大臣顕彰を授与された佐藤琢磨
- F1在籍チーム
- ジョーダン
B・A・R
スーパーアグリF1 - インディカー在籍チーム
- KVレーシング
A.J.フォイトレーシング
レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング
アンドレッティ・オートスポーツ
幼少期と家族
新宿戸山の都営アパートで育った。小学4年制の3学期に町田に引っ越した後はいじめにあっていたという。もともと自動車好きの少年時代を過ごしていたが、1987年10歳の時に弁護士の父親和利氏とその友人達に連れられて、ワンボックスカーで日本初開催となったF1日本GPを観戦しに鈴鹿サーキットへ、そこでアイルトン・セナの走りに魅了されモータースポーツの魅力に取りつかれた。90年にも再び父親と鈴鹿へ訪れている。
父親は琢磨が6歳の時に食道がんに冒されたが、その後30年以上にわたり癌と戦い続け2011年6月に62歳で亡くなっている。琢磨自身相当に頭が切れる人物だが、その琢磨をして「俺とは頭の作りが全く違う」と言わしめる程頭の良い父でだったそうだ。
当時10歳だった琢磨は、レーシングドライバーになるための方法が分からなかったため、車と同じタイヤで走る乗り物である自転車に打ち込むようになった。
元舞台女優の母昭子氏は幼少期の琢磨について次のように話している。「よくいたずらする子。血だらけで家に帰ってきたりやることがむちゃ。屋上から飛び降りるふりをしたり、とにかくおもしろい子だった。塾だって、みんなが琢磨と遊んでしまって授業にならないから、もう来ないでくれって言われたり」
F1への目覚めと驚異的行動力
和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。大学受験の際には、塾の担当講師に対して「塾の外でマンツーマンしてくれ」とスカウト。その理由について琢磨は、塾講師の給料は月謝の4分の1であったため塾に払う月謝の半分を先生に直接払えば、ウィンウィンだったから、と語っている。
早稲田在学時にSRS-F(鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ)が設立された事を知り、大学を中退してモータースポーツの世界へ。チャンスを逃すまいとした琢磨は、夜中2時に母親に突然電話をして援助を求めた。ちなみに琢磨は、レースの世界に身を投じる前は自転車競技でインターハイ制覇、大学選手権優勝などの記録を残している。
SRS-Fの入学テストでは書類選考が課せられていたが、主だったレースキャリアを持たない琢磨は書類選考ではなく面接を希望。審査官に訴えこれを認めさせた。SRS-Fを首席で卒業した後の1998年、無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権でデビュー。だが2戦出走後に突然渡英しフォーミュラ・ボクスホールJr.へ。
イギリスF3選手権からF1へ
フォーミュラ・ボクスホールJr.でならした後、2000年にイギリスF3選手権にフル参戦し初年度にシリーズ3位を獲得。この年の琢磨の走りに魅了されたアンソニー・デビッドソンは、琢磨のチームメイトになる事を望み同チームに志願した。
翌年2001年シーズンには、日本人として初めてイギリスF3チャンピオンを獲得。英オートスポーツ誌は「F3史上最も成功したドライバー」として評価した。
F1での主なキャリアと戦歴
ジョーダン時代 / 2002年
© Indycar / Ron McQueeney
ホンダエンジンを積むジョーダンのレギュラードライバーとして2002年にF1デビューを果たした。史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーの誕生だ。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でのF1デビューは奇跡的と言える。
年 | 車両 | 出走 | 優勝 | PP | 順位 | ポイント |
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2002年 | EJ12 | 17 | 0 | 0 | 15位 | 2点 |
BAR時代 / 2003-2005年
© Indycar / Dan Helrigel
2003年に、レギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしてBARに移籍。最終戦日本GPで、BARジャック・ヴィルヌーヴの参戦を取り止めにより急遽1年ぶりとなる出走、6位入賞を果たす。
2004年は度々エンジントラブルに見舞われるなど不運な前半戦を過ごすも、ニュルブルクリンクで開催されたヨーロッパGPでは日本人初のフロントロー獲得の偉業を達成。更にアメリカGPでは、日本人最高位タイとなる3位フィニッシュを果たすなど活躍した。この年のマシン「BAR 006」は非常に高い戦闘力を発揮し、フェラーリに次ぐコンストラクター2位を獲得した。
© Indycar / Dan Helrigel
2005年は琢磨のキャリアの中で最悪の一年となった。マレーシアGPではウイルスを起因とする体調不良のために欠場を強いられ、サンマリノGPではレギュレーション違反(車両重量規定違反)によって失格となり、これに伴ってスペインGP及びモナコGPの2レースでは出場停止処分を科された。
年 | 車両 | 出走 | 優勝 | PP | 順位 | ポイント |
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2003年 | BAR 005 | 1 | 0 | 0 | 18位 | 3点 |
2004年 | BAR 006 | 18 | 0 | 0 | 8位 | 34点 |
2005年 | BAR 007 | 16 | 0 | 0 | 23位 | 1点 |
スーパーアグリ時代 / 2006-2008年
© Indycar / Dana Garrett
2006年、鈴木亜久里が立ち上げたmade in all japanの新チーム、スーパーアグリF1から参戦。しかしながら資金面の問題から4年落ちのアロウズのシャシーを使用するなどマシンに圧倒的なハンデを背負いながらの苦しい一年を過ごす。しかし2007年は一転、すべての日本人に強烈な感動を与えた第6戦カナダGPで、王者フェルナンド・アロンソをオーバーテイクし6位でフィニッシュ。
2008年、スーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。5月6日、スーパーアグリF1チームの撤退を以て所属チームを失う。その後、ル・マン24時間レースやALMS、インディなどからオファーを受けるも全て断り、あくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めていたが、2008年4月のF1スペインGPがF1における佐藤琢磨のラストランとなった。
年 | 車両 | 出走 | 優勝 | PP | 順位 | ポイント |
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2006年 | SA05 / SA06 | 18 | 0 | 0 | 23位 | 0点 |
2007年 | SA07 | 17 | 0 | 0 | 17位 | 4点 |
2008年 | SA08 | 4 | 0 | 0 | 17位 | 0点 |
インディカーでの主なキャリアと戦歴
KVレーシング時代 / 2010-2011年
© Indycar
2009年にインディ500を初観戦した琢磨は、F1を超えるその恐ろしいスピードに魅了され、F1と並行して米インディカー・シリーズへの参戦を模索。F1復帰を優先としてロータスやルノー等とも交渉を行っていたが、シートの空きが無くなった事で、KVレーシングよりインディーカーシリーズへの参戦を発表した。
インディカー初年度となる2010年は全17戦中8戦しか完走できず、ランキング21位(最高9位)でシーズンを終えた。
翌年2011年も同チームより参戦、開幕戦となったセントピーターズバーグで自己ベストとなる5位入賞、第4戦サンパウロでは自身初のリードラップを記録し8位入賞、そして第8戦アイオワでは自身初となるポールポジションを獲得するなど、前半に大躍進を遂げるも後半失速し、総合13位に終わった。
第1期 RLL Racing時代 / 2012年
© Indycar / Mike Young、ダリオ・フランキッティとの攻防でスピンを喫したレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングの佐藤琢磨、2012年インディ500最終ラップにて
2012年はレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLL Racing)に移籍した。
開幕戦セントピーターズバーグでは一時ラップリーダーになるも電気系トラブルでリタイア。第4戦ブラジルでは3位表彰台、第12戦エドモントンでは2位フィニッシュを果たし、武藤英紀と並ぶ当時の日本人ドライバー最高位タイを記録した。
ハイライトは自身3度目の挑戦となったインディ500。19番グリッドからスタートした佐藤琢磨は、徐々にポジションを上げてラスト2周でスコット・ディクソンを抜き去り2位に立つと、最終ラップのターン1でダリオ・フランキッティに仕掛けるも、スピンを喫してウォールに激突した。
「No attack, no chance」の信念のもと、200周のレースの大部分をトップ5で戦い、31周のリードラップを記録したものの、後3コーナーを残して17位に終わった佐藤琢磨はレース後「ターン1に差し掛かる前の時点で既に僕は(フランキッティ)のイン側にいた。彼は僕に十分なスペースを与えてくれなかったように思う」と述べた。
レースディレクターのボー・バーフィールドは金曜日のプライベートミーティングの際に、ドライバー達に対してターンインする際にイン側のラインに対して1台分のスペースを空けるよう指示をしていた。なおフランキッティのチームメイトであったスコット・ディクソンは「(琢磨は)勇敢だったが、ダリオは彼にスペースを残していたと思う」と語った。
A.J.フォイト時代 / 2013-2016年
© Indycar
2013年~2016年はA.J.フォイト・レーシングから参戦。チームオーナーのA.J.フォイトが、2012年インディ500のファイナルラップでの琢磨の走りに魅了され獲得。第3戦ロングビーチで念願の初優勝。フォーミュラカーレースのトップカテゴリの一つであるインディーカーにおいて、日本人として初めての優勝を飾った。2016年シーズン終了後、チームのエンジンサプライヤーがホンダからシボレーに変更になったことに伴いチームを離脱、アンドレッティ・オートスポーツに移籍した。
アンドレッティ時代 / 2017年
過去4度のタイトルを獲得していた名門アンドレッティ・オートスポーツに移籍。第6戦インディ500でアジア人初優勝の歴史的快挙を達成した。第8戦デトロイトと第14戦ポコノではポール・ポジションするなど、以降その勢いをキープした。ツキに恵まれず決勝でのリタイヤが続出、年間争いでは441ポイントの8位に終わった。
当然来季もアンドレッティ残留と思われたが、財政事情からチームはホンダからシボレーエンジンへ変更。インディの次にシリーズチャンピオンを狙う琢磨は、契約の更新権利を行使せず古巣レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングへの移籍を決断した。
第2期 RLL Racing時代 / 2018年~
インディ500チャンピオンチームではなくレイホールを選んだ背景には、アンドレッティはオーバルには強いもののロードコースでの戦闘力はイマイチという事に加えて、ユニバーサル・エアロ・パッケージの導入によりメカニカルグリップの重要性がさらに向上する等の事情があった。琢磨は「来年のシリーズ・チャンピオンを狙える唯一の選択肢」だとその理由を明かしている。
2019年の第103回インディ500ではトップに約0.3秒及ばず3位に甘んじるも、2020年の第104回インディ500予選では日本人過去最高位となる最前列3位を獲得し、決勝では自身2度目となる優勝を飾った。
© Indycar