3年契約でホンダからF1デビューする可能性があったルイス・ハミルトン
ルイス・ハミルトンにはマクラーレンではなくホンダワークスからF1デビューする可能性があった。仮に実現していれば7度のF1タイトル獲得という途方もない彼のキャリアは別の姿になっていたかもしれない。
ハミルトンのF1キャリアにおける最大の分岐点はマクラーレンからメルセデスへの移籍だった。サプライズ移籍の背景には当時チーム代表を努めていたロス・ブラウンの猛プッシュがあった。
2006年のGP2チャンピオン獲得を経てハミルトンはフェルナンド・アロンソのチームメイトとして英国ウォーキングのチームからF1デビューを果たし、そのルーキーイヤーに最終戦までタイトルを争う桁外れのパフォーマンスを発揮した。
2012年までの6年間で重ねた勝ち星は14回。2008年にはF1ワールドチャンピオンにも輝いた。そんな栄光のチームを去り向かったのは、2010年のワークス復帰を経て僅か1勝しか挙げられていなかったメルセデスだった。これがミハエル・シューマッハに並ぶ史上最多の戴冠劇に繋がる。
ただハミルトンはそれ以前にも英国ブラックリーのチームと契約する機会があった。まだチームが「ホンダ」と言われていた遥か前の事だ。これもまた、知られざるターニングポイントだったと言える。
GP2シリーズを席巻していた2006年シーズン。ハミルトンの父、アンソニーは息子を来年のF1グリッドに立たせるべくパドックを駆け回った。マクラーレンの総帥、ロン・デニスが昇格を見送る可能性を踏まえて他の選択肢を探ったのだ。
英「The Race」によるとアンソニー・ハミルトンは、当時ホンダF1の最高経営責任者(CEO)を務めていたニック・フライとスポーティング・ディレクターのジル・ド・フェランと会談。マクラーレンがハミルトン昇格を見送った場合、代わってF1レースシートを提供するという合意をホンダから引き出したと言う。
ホンダからのオファーは3年契約で、ボーナスとインセンティブを含めて1シーズンあたり100万ポンドの基本給を保証するものだったという。当時のレートで約2億1400万円。新人へのオファーとしては異例の高待遇だった。
ただマクラーレンは翌年に向けてハミルトンをデビューさせるという適切な判断を下した。そのためホンダからのF1デビューは幻に終わったが、仮にそうなっていればハミルトンのF1キャリア初期は相対的に見て冴えないものになっていただろう。
”アースカラー”の2007年型「RA107」は前年の競争力が嘘であったかのような失敗作となり、翌年の「RA108」はシーズン途中で早々に開発中止の決断が下されコンストラクター選手権9位に終わった。そして2008年末のF1撤退を経て、チームはロス・ブラウンが買い取る形で「ブラウンGP」へと姿を変えた。
スポットライトを浴びるには3年を要した事だろう。ホンダの置き土産となった事実上の「RA109」、ブラウンGPの「BGP001」はジェンソン・バトンに初のワールドタイトルをもたらした。3年契約の最終年にハミルトンがタイトル争いをしていた可能性は高い。
ただ、例えハミルトンがブラウンGPで2009年のタイトルを獲得していたとしても、そのままブラックリーのチームに留まる決断を下していたかどうかは分からない。
タイトル獲得と同時にバトンがチャンピオンチームを去り、ハミルトンが所属していたマクラーレンに移籍した事が象徴するように、ブラウンGPを買収して誕生したメルセデスGPの将来性に対する期待値は当時、決して高くはなかった。
7冠達成の最大の鍵は2014年以降のメルセデスだ。
エンジン規定の刷新に伴い、F1にV6ハイブリッドが導入されると勢力図は一変。メルセデスは強力なパワーユニットを武器に支配的な競争力を発揮し、7年連続でダブルタイトルを勝ち取る強さを見せた。
このうちハミルトンが勝ち取ったのは6回。2014年からのメルセデス在籍なくして最多戴冠記録はなかった。
ホンダからデビューしていた場合、ハミルトンはバトンが歩んだようなキャリアを辿ったのだろうか。それともブラックリーのチームに忠誠を誓い、やはり7度のタイトルを勝ち取ったのだろうか。歯車の掛け違いが歴史をどう変えたのかを妄想するのは面白い。