佐藤琢磨、F1とHondaを語る「諦めず挑戦し続けて世界一の夢を実現するのがホンダ」
鈴鹿サーキット・レーシングスクール(SRS-F)を主席で卒業し、F1デビューの夢を叶えるために渡英して早22年。名実ともに日本を代表するレーシングドライバーとなった佐藤琢磨が、自身にとってのF1という存在や、長きに渡るキャリアにおいて共に歩み続けてきたホンダについて語った。
佐藤琢磨にとってのF1とは?
弁護士の父とその友人達に連れられてワンボックスカーに乗り、1987年のF1日本GPを観戦しに行った佐藤琢磨少年は、アイルトン・セナの走りに魅了されF1の道を志した。初めてカートに乗ってから5年後、佐藤琢磨はその夢の”1つ目”を叶えてみせた。
ジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に挑んだ佐藤琢磨は、空力的に不安定な「ジョーダン・ホンダ EJ12」の扱いに苦戦しながらも、エンジニア達の懸命の開発もあって、最終第17戦として行われた鈴鹿での日本グランプリで5位フィニッシュを果たし、自身初の入賞を成し遂げた。
自身初の愛機について佐藤琢磨はこの程公開された動画「Honda Racing Topics」の中で「凄く乗りにくいマシン。ダウンフォースを究極に表現するという点で理論的には優れていたけど、実際には空力特性が安定せずに、剛性が不足していた事もありハンドリングが悪く、ドライバー泣かせだった」と語った。
その一方で「レーシングドライバーとしての引き出しを増やすことが出来た」とも語り、忘れられない特別なマシンだとして「感謝している」とも付け加えた。
© Indycar / Ron McQueeney、ジョーダン・ホンダEJ12をドライブする佐藤琢磨、2002年F1アメリカGPにて
デビュー翌年にはB・A・Rホンダに移籍。2004年のヨーロッパGPでは日本人初のフロントロウを、そして同じ年のアメリカGPでは日本人最高位タイとなる3位表彰台を獲得するなどしてチームのコンストラクター2位に貢献するも、2005年はスランプ続きのシーズンに終わり、その年の終わりを以て、鈴木亜久里が立ち上げたスーパーアグリへ移った。
「1987年に鈴鹿サーキットで行われた最初の日本グランプリを見に行って、そこで本当に衝撃を受けて心を奪われて、それからF1だけを目指してやってきました」と佐藤琢磨は振り返る。
「その10年後に同じ鈴鹿サーキットのレーシングスクールに入学し、ホンダパワーでドライブしていた僕らのパイオニアの中嶋悟さんの後を追うように、卒業生として世界に行きました。イギリスに行ったのも当然F1を考えての事でした。自分の中では本当にF1が全てでしたね」
「そういった経緯もありましたので、ジョーダンホンダでデビューして再び鈴鹿に戻って来れたというのは本当に特別でした。当時の自分はF1という夢を追い求めてがむしゃらに走っていた。僕にとっての全てだったと思います」
戦友、田辺豊治との関係
B・A・R時代の担当エンジニアは、後にF1プロジェクト総責任者として第二期マクラーレン・ホンダの創世記を担った長谷川祐介。一方、チームメイトのジェンソン・バトンのレースエンジニアを務めたのは、2018年よりホンダのF1テクニカルディレクターを務めている田辺豊治だ。
資金難を理由にスーパーアグリが2008年のスペインGPを以て撤退した事に伴い、佐藤琢磨はこれを最後にF1を去る事になるが、田辺豊治もまた、ホンダのF1撤退に伴い本田技術研究所の量産エンジン開発へと職場を変えた。だが、2人はアメリカンモータスポーツの現場で再び共闘する。
© Honda
佐藤琢磨は2010年にKVレーシングからインディカー・シリーズへと参戦。田辺豊治は2013年にHPDシニア・マネージャー兼レースチーム・チーフエンジニアの職に就き、2人は2017年の例の偉業を達成する事になる。
田辺豊治について佐藤琢磨は「僕にとっての田辺さんは、何でも言えて何でもリクエストできる人。(会社として)進んでいる方向性だとか、ホンダとして今どれぐらい力を入れている等といった事を教えてくれる人でしたし、本当に良いパートナーであり先輩でもあり、すごく心強い存在でした」と語る。
「2人(田辺と長谷川)は当時のF1エンジンの現場を知り尽くしていたので、色んな要望を聞いてもらっていました。僕の方は原因不明のトラブルが多く苦しいレースが続いていた事もあり、コース上でエンジンが壊れてしまう原因を解明するために、栃木の研究所でありとあらゆる再現に取り組んでいました」
「ある一定の回転数と言うか、エンジンが嫌う回転数があるんですけど、そこをなるべく使わないようにするためには、どういったシフトパターンにした方が良いとか、そういった内容を3人でよく話をしていました」
「田辺さんと長谷川さんが栃木研究所スタッフたちと一緒に一生懸命に原因を究明してくれた結果として、2004年のあの素晴らしいリザルトに繋がったのだと思っています。一緒にやってこれて本当に良かったなと思いました」
「(田辺さんは)物腰はすごく柔らかくて、何でも本当に気さくに話せるエンジニアなんですけど、内に秘めたものはすごく熱い。勝利への執念と言うか、ホンダとしてやる以上は絶対に勝つ、といった強い意志を持った方だと思います」
「(F1を終えて)北米でもう一度一緒にやらせてもらって、自身7度目の挑戦で2017年のインディ500に勝った時、田辺さんが顔をぐちゃぐちゃにして喜んでくれました。2人でここまでやってこれて本当に良かったという想いを持ちましたね」
© Indycar、2017年のインディ500で優勝したアンドレッティ・オートスポーツの佐藤琢磨
同じ目標と志を持ち、共に世界の頂点を目指して戦い続けた”戦友”であるからこそ、2019年のオーストリアGPでのホンダにとっての13年ぶりのF1での勝利は、佐藤琢磨にとっても特別なものだった。
「嬉しかったです。本当に」と佐藤琢磨は微笑む。「田辺さんがチームの代表として表彰台に上がったあのシーンには、多分日本人全員が目頭を熱くしたんじゃないでしょうか」
© Getty Images / Red Bull Content Pool、田辺テクニカル・ディレクターからシャンパンを浴びせられる豊治マックス・フェルスタッペン、F1オーストリアGPの表彰台にて
ホンダと佐藤琢磨
レース業界に限らず、生き抜いて行く上で、その時代毎に関わる人や組織が変わる事は珍しくない。だが、佐藤琢磨は夢を志した時から一貫してホンダと共にあった。佐藤琢磨にとって、ホンダとはどのような存在なのだろうか?
佐藤琢磨は「日本人として世界の頂点を目指す同志ですから無条件に誇らしく感じます」と答える。
© Getty Images / Red Bull Content Pool
「僕はこれまでずっと胸にホンダのバッジを付けてここまでレースをしてきましたが、本当に苦しい時期も経験しました。F1では予選フロントロウを獲ってミハエル・シューマッハと並んだ事もありましたし、フェラーリとやりあって表彰台を経験することができた一方で、勝つことは出来なかった。でもその後、インディ500でホンダと一緒に世界の頂点を獲ることができました」
「自分にとって本当に特別な想いがあります。キャリアの全てをホンダと一緒に歩んでこれて凄く光栄に思いますし、本当に誇りに思ってます」
「ホンダに限らずコンペティションに全ての携わる者は皆同じ気持ちだと思いますけど、ホンダには(創業者の)本田宗一郎さんが世界でナンバーワンを目指していたという文化がありますから、ホンダに関わる人間にとっては特にそういった想いがあると思います」
「一切妥協せずに頂点を目指してどんな状況でも諦めずに自分を信じて挑戦を続ける。ホンダに限った事ではないと思いますが、それでもなお自分としては、ホンダ色というものはその部分にあると思っています」
「ナンバーワンになるために、ありとあらゆるリソースを使って夢を実現してしまう。個人的にはそれがホンダだと思いますね」
© Indycar、2017年のインディ500でトップチェッカーを受けるアンドレッティ・オートスポーツの佐藤琢磨