マクラーレンのレーシングスーツに身を包んだフェルナンド・アロンソ、インディアナポリス・モーター・スピードウェイにて
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アロンソ、インディ500″劇的”敗退までの舞台裏…マクラーレンは何故競争力を欠いたのか?

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103年の長きに渡るインディ500。グラハム・ヒルに次ぐ史上二人目のトリプルクラウン・ドライバーの誕生によって歴史的な大会となる可能性もあったが、マクラーレンは後世に語り継がれるであろう悲劇的ドラマを演じたのみで米国を後にした。何故、2度のF1ワールドチャンピオン、フェルナンド・アロンソは予選敗退を喫したのだろうか?

F1モナコGP、ル・マン24時間レース、インディ500。世界三大レース全てを制覇するという野望を掲げ、フェルナンド・アロンソは昨年秋、アラバマ州バーバー・モータースポーツパークでアンドレッティ・オートスポーツのマシンをテストした。オーバル用パッケージではなかったものの、2019年のインディアナポリス500マイルレースへの参戦に向けて、ユニバーサルエアロを装着した2018年型インディカーマシンを評価。2度目のインディ500に向けて第一歩を踏み出した。

因果応報…ホンダバッシングの報い

アロンソが初めてインディ500に参戦したのは2017年。マクラーレンは当時、F1でホンダとエンジン供給契約を結んでいたため、その兼ね合いからホンダエンジンを搭載するインディカー・シリーズの強豪アンドレッティ・オートスポーツとの契約にこぎつけスポット参戦を果たした。

アンドレッティ・オートスポーツは、インディカー・シリーズを4度制覇した名門中の名門。F1とインディカーの両方でチャンピオンに輝き、インディ500とデイトナ500を制した米国で最も成功したレーシングドライバー、マリオ・アンドレッティの実子、マイケルが率いるアメリカンモータースポーツを代表するレースチームだ。

左からマイケル・アンドレッティ、マリオ・アンドレッティ、マルコ・アンドレッティ
© Indycar、アメリカンモータースポーツを代表するアンドレッティ家、左からマイケル・アンドレッティ、マリオ・アンドレッティ、マルコ・アンドレッティ

シリーズ制覇のみならずインディ500でも5勝を誇る強豪であり、2017年の第101回大会では当時アンドレッティに所属していた佐藤琢磨がアジア人としてこれを初制覇。同じマシンを駆ったアロンソも、残り21周というところでエンジンブローによってリタイヤするまで、27周のリードラップを記録するなど、高い競争力を誇示した。

当初マクラーレンは、アンドレッティの協力を得て2019シーズンのインディカー・シリーズにフル参戦する計画を立てていたが問題が勃発。ホンダ側が消極的な姿勢を示した。公には、リソース的にエンジン供給数の拡大が困難であるため、とされたが、それを鵜呑みにする者はいない。

2012年を境にF1での優勝争いから遠ざかっていた英国ウォーキングのチームは、2015年にホンダとの間でパワーユニット供給契約を締結。かつての栄光を取り戻すべく再始動をかけたが、優勝はおろか表彰台すら獲得できないままに2年が過ぎ去り、ホンダとのタッグ復活を先導した総帥ロン・デニスが失脚。世界最大規模のモータースポーツ広告代理店の一つであるジャスト・マーケティング・インターナショナル(JMI)を創設した米国のビジネスマン、ザク・ブラウンが後釜に座った。

お家騒動とも言える組織変更を経て3シーズン目を迎えると、マクラーレンはF1での成績不審の原因はホンダのみにあるとの批判キャンペーンを展開。その結果、2017年末を以て3年に渡る関係は終焉を迎えた。デトロイトを本拠とするAutoweek誌は、本田技研工業が、インディカープロジェクトを担当するアメリカ現地法人ホンダ・パフォーマンス・ディベロップメント(HPD)側に、マクラーレンとの提携を禁止したと報道。アンドレッティとの再提携が実現しなかったのは、ホンダとの関係悪化が直接の原因だと広く考えられている。

まさに身から出た錆。望んでいたホンダ搭載車でのエントリーの可能性が消失した結果、マクラーレンに残された道はシボレーのみとなった。シボレーを積むハーディング・レーシングとアンドレッティが提携し、これをマクラーレンが運用する形が模索されたが、NYヤンキースを所有する大富豪スタインブレナーがハーディングと提携。ホンダエンジンへとスイッチした事から頓挫した。その結果マクラーレンは、昨年10月に2019シーズンのフル参戦を断念する事を発表した。

最後のレースに挑むマクラーレン・ホンダ
© Honda Racing、マクラーレン・ホンダとしての最後のレースとなった2017年F1アブダビGP

シボレーを搭載、カーリンと提携して自力参戦

その3週間後、マクラーレンは2019年インディ500へのスポット参戦を発表。その責任者として、以前フォース・インディアF1チームの副チーム代表を務めていたボブ・ファーンリーを起用する事を明らかにした。

搭載するのはホンダではなくシボレー製エンジン。カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ時代以来47年ぶりに手を組んだ。クルマは本拠地マクラーレン・テクノロジー・センターで独自に組み立てられた。当初は全てを独自で切り盛りする心づもりであったようだが、2月に入って同じ英国に本拠を構えるカーリンとの提携が発表され、物流やオペレーション、データ共有といった領域で手を組む事が明らかにされた。

カーリンはセバスチャン・ベッテルやニコ・ロズベルグ、佐藤琢磨といったF1ドライバーを輩出してきた実績を持つものの、インディカー・シリーズへの初参戦は2018年。米国モータースポーツにおいては新参チームであり、2年目を迎えたばかりであった。なぜマクラーレンは、インディ500という途方もなく困難なチャレンジに挑むに際して、実績のないカーリンと提携したのだろうか?

シボレーエンジン勢の中でトップに君臨するのは言わずもがなチーム・ペンスキーだが、彼らは他チームとアライアンスを組まない。次善策はオーバル職人と称されるエド・カーペンター率いるエド・カーペンター・レーシングだが、彼らはフェラーリとの結びつきが強いスクーデリア・コルサと提携。インディ500を含む2019シーズンの13戦でエド・ジョーンズを走らせる契約を結んでいた。今年2月、カーペンターは「マクラーレンと提携するつもりはないし、そもそも彼らが何を目論んでいるのかも知らない」と語り、協力関係を結ぶ可能性はゼロと断言。金銭面がネックとなったとも噂されている。

当のカーリン側はマクラーレンとの提携の理由について、チームオーナーのグレアム・チルトンとマクラーレンのザク・ブラウンCEOのビジネス上の付き合いがあったためだとしている。

ポールポジション獲得を喜ぶシモン・パジェノー、2019年インディ500予選
© Indycar、予選ポールポジションを獲得したのはペンスキーのシモン・パジェノーだった

予選敗退の序幕、オープンテストでトラブル

そして迎えた4月のオープンテスト。トップタイムを刻んだのは、Mi-Jackカラーの黄色のパナソニック・ホンダ30号車に乗り込んだ佐藤琢磨だった。涼しいコンディションを味方につけて、ドラフティングなしのスピードでも全体ベストを記録した。一方のアロンソは、いざコースインしようとしたところ、ピットレーンの出口でマシンストップ。電気系統のトラブルによって出鼻をくじかれ、走行わずか29周に終わった。

テストを振り返ったアロンソは「完全に新しいシャシーだったから、多かれ少なかれトラブルが出る事は予想していた」と語る一方で、今回の挑戦が「困難なものになる」と口にし、アンドレッティによって”完璧”な戦闘態勢が用意された昨年とは状況が大きく異なる事を痛感していた。

ミスによるクラッシュ…迫る悲劇の足音

プラクティスが始まると、厳しい状況が更に浮き彫りとなった。1回目の練習走行では再びメカニカルトラブルが発生。電気配線を交換する必要に迫られ、走行時間を大幅に失った挙げ句、32番手に終わった。だが、これはただの序章に過ぎなかった。

翌日のプラクティス2ではターン3で派手にクラッシュ。26番手に終わったアロンソは「グリップ不足を過小評価してしまった。僕のミスだしチームに申し訳なく思う」と肩を落とした。

2019年インディ500プラクティス2でクラッシュを喫したマクラーレンのフェルナンド・アロンソ66号車
© Indycar、66号車マクラーレンは大破した

クルマが大破した事で、マクラーレンは翌3日目の練習走行を走れずじまいに終わった。修復を諦めたチームは、カーリンから購入したバックアップカーの準備に取り掛かったが、走れる状態のクルマを用意するのに1日以上を費やした。シュミット・ピーターソン・モータースポーツが、予選でクラッシュを喫したジェームズ・ヒンチクリフを3時間とかからずコースに復帰させた事を思えば、なんともお粗末である。

予選前最後の金曜「ファスト・フライデー」ではターボ圧がブースト。約50馬力に相当する1,000ミリバールの追加使用が認められ、12番手のトニー・カナーン(AJ Foyt)までが230mphの大台に乗せた。マクラーレン=アロンソはこの日初めて堅実な一日を過ごし、トータル77周を走り込んだが229.328mphで総合24番手、トウなしでは30番手と、予選落ちのシナリオが現実化しつつあった。

もはやレース用のセットアップ作業に取り組む余裕はなく、予選に向けた準備にのみ時間を割いた。この日は、フンコス・レーシングのカイル・カイザーがエアボーンクラッシュ。幸いにも無傷であったがクルマは大破。フンコスはスポンサー契約の喪失により財政難に陥っており、予選に向けてクルマを準備できるか不安視されたが、キッチリと整備を整えマシンを修復した。この時は思いも寄らなかったが、このアルゼンチン発祥の弱小チームが、翌日の予選で劇的ドラマを演出する事になる。

新興・予算難のフンコスに敗れ去った英国の名門

迎えた予選1日目。アロンソは、スローパンクチャーに見舞われた事もあり、1回目のアテンプトを終えて33番手。起死回生の逆転にかけるべく、レーン1から計5度の再アテンプトに挑戦するも31番手。予選通過を確定させる事が出来ず、カーリンのマックス・チルトンとパトリシオ・オワードらと共に、2日目の”ラストロー・シュートアウト”に臨む事となった。

インディ500の予選は2日間に渡って行われ、初日のセッションでは10番グリッドから30番グリッドまでが確定。31番手以降のドライバーは、残る3つのグリッドをかけて2日目の最後のチャンスにトライする。

後がないマクラーレンは予選1日目を終えた夜、マシンの全てのパーツを取り外して完全オーバーホールを実施。アンドレッティ・オートスポーツから急遽、ダンパーに関するデータ提供を受けるなど、予選突破に向けて出来うる限りの対策を施して最終決戦への準備を整えた。

予選1日目で最アテンプトに臨んだフェルナンド・アロンソ
© Indycar

運命の予選2日目は雨。時速370kmに達する速度で走行するスーパースピードウェイではレインタイヤは用をなさない。残り3つのグリッドをかけての争いは、天候の回復を待って4時間15分遅れでスタートした。決戦直前、ボブ・ファーンリーは「F1では経験した事のない重圧だが、これこそがインディ500だ」と語り、あろう事か笑顔をみせていた。悲壮と失望の幕締めになるとはつゆ知らず、マクラーレンのインディカー責任者は、アロンソの予選突破を確信していた。

セージ・カラム、ジェームズ・ヒンチクリフがある種順当に予選突破を決めた一方で、パトリシオ・オワード、マックス・チルトンのカーリン勢は脱落。227.353mphで暫定33番手の足切りラインのギリギリにつけていたアロンソは、前日にクラッシュを喫した弱冠23歳カイル・カイザーの結果を待つ事となった。

インディ500の予選は、4周平均速度を競うフォーマット。ラストアタッカーのカイザーは、1周目にアロンソの平均値を上回る227.720mphを記録。アロンソはサングラスをかけ腕を組みその様子を見守っていたが、落ち着き払おうとする意志とは無関係に、その振る舞いには恐怖と焦りが見え隠れしていた。

4周を経るまでに概ね時速1.2マイル程低下する傾向にあるが、カイザーはその後殆どスピードを落とさず平均速度227.372mphを記録。アロンソを蹴落として33番目のラストグリッドを手に入れた。予選落ちが確定したアロンソは、インタビューに答えず、すぐさまバックヤードへと立ち去った。アロンソのインディ500への挑戦、史上二人目の快挙達成へのチャレンジは、決勝を走るにも至らず幕を下ろした。

カイル・カイザーのアタックを待つマクラーレンのフェルナンド・アロンソ、2019年インディ500予選
© Indycar、カイル・カイザーのアタックを待つマクラーレンのフェルナンド・アロンソ

なお、エド・カーペンターの3台は全てポールポジションを争う”ファスト9″への進出し、2番手から4番手までを独占。アンドレッティ・オートスポーツ勢はライアン・ハンター=レイが22番手、他の3台は9番手から11番手と好位置を確保した。

保身に走るマクラーレン最高経営責任者

予選翌日、マクラーレンのザク・ブラウンCEOは、AP通信のジェナ・フライヤーに対して、悲惨な結末に至った経緯を事細かに説明した。それは次のような内容だ。

準備不足のために、テスト1週間前にブラウン自身がコスワースから直接ステアリングホイールを確保した事。テスト後にスペア用にカーリンから購入したシャシーの外装色が、マクラーレンが望んでいたパパイヤ・オレンジとは若干異なっていたため再塗装を強いられた事。ラストロー・シュートアウトに臨む際、クルマのギア比が誤っていた事など。

ブラウンは一体何を伝えたかったのだろうか。ギア比の件に関しては一発勝負であるため、条件はどのチームも同じ。ライバルチームがマクラーレンよりも的確に路面コンディションを読み解き、最適なギア比を設定しただけに他ならない。

更にブラウンは、カーリンには3台体制をマネジメントするだけの能力が欠如していたと主張し、「最初のテストを終えた後の状態であれば挽回する事が出来たはずだった。もっと自分の直感に従えば良かった。自分に腹が立つ」と付け加えた。自らが感じた通りに、他の人間ではなく自分自身が指揮を取ってさえいれば、予選敗退はなかったと言いたげに。

インディ500予選の成り行きを見守るマクラーレンのザクブラウンCEO
© Indycar、予選の成り行きを見守るマクラーレンのザク・ブラウンCEO

だが、そもそもカーリンとの提携を決断したのはマクラーレン自身であり、本命のアンドレッティ・オートスポーツと手を組めなかった原因を作ったのも、ブラウンを含めたマクラーレン上層部とアロンソだった。

確かに当時のホンダF1は信頼性とパフォーマンスを欠いていた。だが、ワークスチームとしてエンジンと車体を共に作り上げていくプロセスを選んだ以上、メディアを使ってパートナーに対する悪態を公の場に持ち込むのは決して褒められた態度ではなかった。ホンダの提携禁止令が事実だとしても驚きはない。

今季よりホンダと手を組んだレッドブルのヘルムート・マルコは、マクラーレン・ホンダの当時の状況を次のように看破している。「マクラーレンの車体側の仕様のためにホンダは妥協を強いられていた。自由な開発を行うことはできず、かなり制限されていたし、アロンソはエンジンに全ての責任があるかの如くあらゆる事を吹聴していた」

ジェナ・フライヤーは「問題の多くはブラウンの管理下を超えていた」と記し、ブラウンは「世界中の人々に、マクラーレンは馬鹿だらけだと思われたくない。チームには真の英雄たる人物が何人もおり、それに相応しい活躍があった」と訴えた。

責任者の解雇と会見での謝罪

予選を終えて24時間すら経たない内に、マクラーレンはインディカープロジェクトの責任者を務めていたボブ・ファーンリーがチームを去った事を明らかにした。事実上の解雇とみられる。スポーティング・ディレクターのジル・ド・フェランは、アロンソと共に臨んだ予選後のプレスカンファレンスで謝罪の言葉を口にした。

予選後記者会見に臨んだマクラーレンのジル・ド・フェランとフェルナンド・アロンソ、2019年インディ500
© Indycar、予選後記者会見に臨んだマクラーレンのジル・ド・フェランとフェルナンド・アロンソ

「チームにとっても私個人にとっても非常に感情的で困難な経験だった」とド・フェラン。「この機会を利用して、アメリカだけでなく我々をフォローしてくれていた世界中の全てのファンに謝罪と感謝の気持ちを伝えたい」

「インディ500は非常に難しいスポーツだ。当然、そのハードルの高さを過小評価していたわけではないが、非常に厳しいチャレンジになることは分かっていた。以前ここに来た際、私は優れたドライバー達が予選に落ちてしまい、レースに出られないのを目の当たりにした。だから、困難なチャレンジになることは間違いなく認識していた」

「左側に座っている彼(アロンソ)にも感謝したいと思う。我々は十分な速さのクルマを用意できなかったが、あなたはF1チャンピオンに相応しいドライブを見せてくれた。この3日間は特に緊張の連続で本当に難しい一時だった。フェルナンド、あなたにこれ以上の事を求める事はできなかった。本当に申し訳なく思う。あなたは素晴らしいドライバーだ」

「35年間に渡る私のレース経験の中で、今回が最もつらい経験となった。我々はこの結果に敬意を払う。これは世界で最も困難なチャレンジの一つなのだから」

再挑戦に慎重なフェルナンド・アロンソ

ド・フェランはインディ500再挑戦への希望を口にしたが、打ち拉がれたアロンソは時期尚早だとして明言を避けた。やや言葉に詰まりながらも主張すべきことを主張し、感じている事を率直に口にするアロンソには、予選敗退を喫してなお、王者の風格が漂っていた。

「現時点で約束するのは難しい」とアロンソ。「決断を下すには時期尚早だ。来月以降の予定すら決まっていないのだから。まずはル・マンで24時間を過ごし、世界耐久選手権でのプログラムを締め括るつもりだ。来年どのようなチャンスがあるのかを見極めるため、2020年の予定を白紙状態にしてある。来年どのような可能性があるのか分からないから、何も約束もできないし、特に考えもない」

「とは言え、これまでも言及している通り、将来ここで再びレースをしてトリプルクラウンを達成できたらって思ってる。ただし、それは今後も僕の目標であり続けるかもしれないし、そうでなく別のチャレンジを見つけることになるかもしれない」

マクラーレンのフェルナンド・アロンソ、2019年インディ500予選ラストシュートアウト後のプレスカンファレンスにて
© Indycar

「僕は様々な挑戦に挑み、色々なシリーズで腕を競い合っている。もしかしたら、来年もまた自分の慣れ親しんだシリーズから離れることになるかもしれない。素晴らしい成功を収めてスポーツの歴史の一部になれるかもしれないし、心底がっかりする結末を受け入れることになるかもしれない」

「今日は後者だったって事だ」

「だけど、僕は家のテレビで観戦するよりも、実際にこの場に来て挑戦する事を選んだ。やらないよりはやってみた方が良い」