マクラーレンとF1モナコGPの歴史 – セナ、プロストらが挙げた15回の優勝を写真と共に振り返る
インディ500、ルマン24時間と並び世界三大レースの1つに数えられる歴史と伝統のF1モナコGP。モナコの舞台となるモンテカルロ市街地コースは、コース幅が狭く周りをウォールとガードレールが取り囲んでおり、格闘技におけるリングのようにドライバーに逃げ道を与えない。それ故、ここで勝利するためには高いドライビング技術と集中力が要求される。
2015年より日本の大手自動車メーカーであるホンダとタッグを組んでいるイギリスの名門チーム”マクラーレン”は、この難攻不落のドライバーズサーキットで史上最多優勝回数を誇るF1チームだ。アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ミカ・ハッキネンと言ったF1史に名を残すドライバー達とともに15勝を挙げている。25日から始まるモナコGPを前に、マクラーレンが過去の15勝にまつわる写真を公開した。
以下にその15枚の写真を紹介しながら、モナコGPとマクラーレンの歴史を時系列に振り返っていこう。
アラン・プロスト
1984年:1勝目
1周目で3台がリタイヤを喫するなど、大雨に見舞われた84年のモナコGP決勝。雨の影響でレースは32周目に赤旗終了、予選1番手でレースをリードしていたプロストはマクラーレンにモナコ初優勝をプレゼントした。とは言え、最も多くの注目を集めたのはモナコ初参戦のアイルトン・セナ。予選13番手ながらも決勝では2位表彰台、セナの名が世界中に広まったのがこの年のモナコであった。ニキ・ラウダとプロストのコンビで挑んだ84年のマクラーレン、全16戦のうちラウダ5勝、プロスト7勝の計12勝をあげた。ラウダは3度目のワールドチャンピオンに輝いた。
1985年:2勝目
予選5番手からの巻き返しを見せたプロスト、ポールはロータス・ルノーのセナ。決勝でセナ、ミケーレ・アルボレートらがアクシデントに見舞われたこともあり、プロストがモナコでシーズン2勝目をマーク。プロストはこの年ラウダを下して自身初のワールドチャンピオンを獲得、ラウダは引退を表明した。
1986年:3勝目
ポールからスタートしたプロストは完璧なレース運びを展開、ポールポジション、ファステストラップ、優勝の3冠を決め、モナコ・マイスターと呼ばれたグラハム・ヒル以来の3連覇を達成した。プロストはこの年の最終戦で7ポイント差を逆転し、2年連続となるドライバーズタイトルを獲得した。
1988年:4勝目
伝説のF1チーム、マクラーレン・ホンダが生まれた88年、チームメイトのセナにポールを奪われたプロストは2番グリッドスタート。セナが67周目にポルティエコーナーで単独スピンを喫したことでプロストはモナコ4勝目をマクラーレンに献上した。マクラーレンMP4/4は16戦中15勝という圧倒的な成績を残しコンストラクターとドライバーズの両タイトルを獲得した。
アイルトン・セナ
伝説のF1ドライバー、アイルトン・セナはモナコGPでの最多優勝記録を誇る。モナコで挙げた全6勝の内5勝をマクラーレンで、1勝を87年のロータスで打ち立てており、同一GPでの連続優勝5回という記録も所持、世界に「セナ」の名を知らしめたのもモナコだった。モナコマイスターの称号はセナのためにあると言っても過言ではない。
1989年:5勝目
2位のプロストに1秒以上の大差つけポールポジションを獲得したセナ、決勝終盤に1速と2速のギアを失うも、プロストに大差を付けてモナコGP2勝目を挙げた。チャンピオンシップを制したのはチームメイトのプロストであった。
1990年:6勝目
ポールはセナ。フェラーリに移籍した予選2番手のプロストは決勝30周目に電気系統のトラブルでリタイヤ、ジャン・アレジとゲルハルト・ベルガーを抑えモナコ2勝目を挙げた。
1991年:7勝目
1991年、シーズン開幕3連勝を達成しモナコに挑んだセナ。ウィリアムズのナイジェル・マンセルに20秒近くもの差をつけ4勝目を挙げた。この年のモナコはセナの独壇場、余りの余裕っぷりに、セナは予選終了後にピットに戻って結果を確認することなく、そのままモナコの自宅へ帰っている。
1992年:8勝目
予選3番手スタートとなったセナ。この年はウィリアムズが開幕5連勝を挙げ圧倒的な強さを誇っていた。レースをリードしていたナイジェル・マンセルが残り8周の所でスローパンクチャー、ピットに戻ったマンセルを交わしグラハム・ヒルに並ぶモナコ5勝目を挙げた。この年を以ってホンダは第2期F1を撤退。
1993年:9勝目
予選ポールを獲得したのはプロスト、2番手にはミハエル・シューマッハ、セナは3番手だった。決勝のセナにはツキがあった。プロストはフライングによる10秒ペナルティで後方に、シューマッハは油圧トラブルでリタイヤ、ライバルが自滅した事で自身6度目のモナコ優勝を果たした。
ミカ・ハッキネン
アメリカモータースポーツ史の伝説のファミリー”アンドレッティ”家のマイケル。テストドライバーとしてマクラーレンに所属していたミカ・ハッキネンは、93年のシーズン途中でチームを離脱したアンドレッティに代わりマクラーレンのレギュラードライバーの座についた。ハッキネンは引退を発表した2002年シーズンまでの14年間をマクラーレンで過ごした。
1998年:10勝目
ハッキネンが初のチャンピオンタイトルに輝いた1998年、マクラーレンは91年以来となるコンストラクターとのダブルタイトルを獲得した。これは前年97年にF1に初めて参戦したブリジストンにとっての初タイトルでもあった。ポールスタートのハッキネンは全周回をリードし、モナコGP初めてにして最後の優勝を飾った。
デイビッド・クルサード
DCの相性で親しまれるデイビッド・クルサードがマクラーレンに在籍していたのは、1996年から2004年にかけての9年間。セナの事故死によってウィリアムズからF1デビューを果たしたクルサードは、そのキャリアの大部分をマクラーレンで過ごした。
2000年:11勝目
ミハエル・シューマッハが驚異的な速さでポールポジションを獲得した2000年のモナコGP、2番手にはヤルノ・トゥルーリ、クルサードは3番グリッドであった。エキゾーストのトラブルによってリタイヤしたシューマッハに代わり、クルサードがレースを制した。
2002年:12勝目
予選一番手はファン・パブロ・モントーヤ、クルサードは2番グリッドにつけた。オープニングラップの1コーナーでモントーヤをオーバーテイクしたクルサードは、その後一度もトップを譲らず、モナコGP2勝目を挙げた。
キミ・ライコネン
ミカ・ハッキネンの後任としてマクラーレンに移籍したキミ・ライコネン。2002年から2006年までの4年間をマクラーレンで過ごした。恐ろしいまでの速さを見せつけていたマクラーレン時代のライコネン、マシンの信頼性不足がなければこの間に2度タイトルを獲得していてもおかしくはなかった。
2005年:13勝目
レース中のタイヤ交換が禁止された2005年のモナコGP、ライコネンに対抗できるドライバーは一人もいなかった。タイヤマネジメントをしっかりこなし後続に13秒もの差をつけポール・トゥ・ウインを成し遂げた。
フェルナンド・アロンソ
マクラーレン第1期のフェルナンド・アロンソは散々であった。フェラーリに移籍したライコネンに代わり、2005年、06年のワールドチャンピオンとなったアロンソは3年契約でマクラーレンに移籍。腰を据えてレースに専念するかに思われたが、チームメイトのルイス・ハミルトンの扱いを巡ってチーム批判を繰り返し、代表を務めるロン・デニスと激しく対立、僅か一年で契約を廃棄し古巣ルノーに舞い戻ることになった。
2007年:14勝目
前年のGP2王者ハミルトンとアロンソのフレッシュなコンビでスタートした2007年。マクラーレン史上初の新入り2名体制であった。モナコGPではハミルトンとの一騎打ちを展開、ポールポジションを獲得したアロンソがそのまま決勝でも優勝、2位にはハミルトンが続き、マクラーレンはワンツー・フィニッシュを決めた。
ルイス・ハミルトン
2008年:15勝目
予選3番手のハミルトン、決勝は雨のウェットスタート。5周目にガードレールにマシンを接触させてしまったハミルトンのマシンはパンク、急遽ピットに戻りタイヤを交換した。絶望的に思われたハミルトンであったが、戦略の妙もありレースリーダーに躍り出て自身初のモナコGP優勝を成し遂げた。