ART Grand Prixから2015年のGP2テストに参加したアレックス・アルボン
Courtesy Of Sam Bloxham/GP2 Series Media Service.

レッドブル放出、慢性的な資金難…首の皮一枚でF1まで這い上がったアレックス・アルボンのキャリア

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アレックス・アルボンは突如としてF1の表舞台に登場し、僅か半年あまりで強豪レッドブル・ホンダに移籍。デビュー初年度にチャンピオンシップ8位に輝いただけでなく、FIAのルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞して、シンデレラボーイとまで呼ばれた。だが、彼のキャリアは全く平坦ではなかった。

世界選手権を制するなど、カート時代に大きな成功を収めたアルボンは、その活躍によりレッドブルの支援を得て、2012年にフォーミュラ・ルノー2.0でシングルシーターデビューを果たしたものの、1ポイントも獲得できず、冷徹・無慈悲なレッドブルは、僅か一年あまりでアルボンをプログラムから除外した。

笑顔のアレックス・アルボン

「シングルシーターでの初シーズンは上手くいかなかった」とアルボン。F1とのインタビューの中で当時を振り返った。「成績を残せていないのに、プログラムに留まる事はできない。自分の能力を証明するために、十分な時間があるような状況じゃなく、僕は自分が出来る事を実際に示す必要があった」

支援を打ち切られてしまったアルボンは、レースを続けるためのスポンサー探しのために、父親と共にタイに向かった。その甲斐あってアルボンは、キャリアを継続できるだけの資金を得て、その後2年に渡ってKTRからフォーミュラ・ルノー2.0に参戦。最終年にはチャンピオンシップ3位を獲得して、蹴落とされた谷から這い上がった。

その翌年にはシグナチュールからヨーロッパF3に参戦し、2016年にはGP3に昇格。チームメイトのシャルル・ルクレールに次いで選手権2位に輝く活躍を残した。2017年にはARTグランプリのシートを獲得してFIA-F2選手権に参戦したものの、潤沢な資金があるわけでもなく、アルボンはシート未定のままで年越しを迎えた。

アレックス・アルボンとシャルル・ルクレール、2016年のGP2及びGP3表彰イベントにて
アレックス・アルボンとシャルル・ルクレール、2016年のGP2及びGP3表彰イベントにて

アルボンは当時の状況を「僕が(18年に)レースできる可能性は10%しかなかった」と説明。キャリア断絶の可能性もあったわけだが、これにDAMSが手を差し伸べた。フランスの名門レースチームは、1戦毎の契約とすることでアルボンに資金集めの時間を与えた。「DAMSは本当に親切にしてくれた。僕は彼らに機会を与えてもらったんだ」とアルボン。ジョージ・ラッセルとランド・ノリスに次ぐ選手権3位でシーズンを締め括った。

レース活動で必要とされるお金は膨大だ。アルボンの資金は変わらず不足しており、好成績を挙げながらもF2での3シーズン目を断念。「資金面に余裕がなくてシリーズへの参戦を断念するのはいつもの事」とアルボンは説明する。

メーカーのサポートも自己資金もないアルボンは、日産e.damsと契約してセバスチャン・ブエミのチームメイトとしてフォーミュラEに転向する事となったが、一本の電話によって、突如、4輪モータースポーツ最高峰の舞台へと飛び出す事になる。

アブダビGPでシーズンが閉幕したその翌日、ドバイモールで新しいトレーナーを物色していたアルボンに電話をしたのは、かつて解雇を宣告したレッドブル・レーシングのモータースポーツ・アドバイザーを務めるヘルムート・マルコだった。

当時アルボンは、フォーミュラEの職務と合わせて、2019年のレッドブルのシミュレータードライバーの仕事について交渉中であったため、ヘルムート・マルコからの着信そのものは驚くべき事ではなかったものの、話の内容は驚きを越えたものだった。

この電話の直後、チームはアルボン起用を正式発表。アルボンにとっては7年ぶりのレッドブルへの帰還となった。その後のストーリーはご存知のとおりだ。