マイクを握るハースのチーム代表を務める小松礼雄、2024年7月5日F1イギリスGP
Courtesy Of Haas

小松礼雄

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人物データ

名前 小松礼雄 / AYAO Komatsu
国籍 日本
出身地 東京
居住地 イギリス
生年月日 1976年01月28日 / 48歳
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小松礼雄(こまつあやお)は、東京都出身の日本人F1レースエンジニア。BARホンダ、ルノー、ロータスを経て、2024年よりハースF1チームのチームプリンシパルを務める。

問題児として知られたロータスF1ドライバーのロマン・グロージャンを育て上げたレースエンジニアとして世界中に知られる。日本では「キャーコマツサン」で有名。2016年にグロージャンとともに、チーフエンジニアとしてハースF1に移籍した。

主なキャリア

1995年
高校卒業後、英ラフバラーに留学し自動車工学を専攻(次席卒業)
その後大学院へ進む
2003年
BARホンダにてF1でのキャリアをスタート
2006年
テストチームのタイヤエンジニアとしてルノーに移籍
2008年
パフォーマンスエンジニアに昇格
2011年
レースエンジニアに昇格
2015年
チーフエンジニアに昇格
2016年
レースを統括するチーフエンジニアとしてハースF1に移籍
2024年
ハースのF1チーム代表に就任

幼少期は同じ東京都出身のロードレースレーサー、阿部典史の影響で二輪レースに関心を抱いていたが、F1レース中継が始まると四輪レースへと興味が移っていった。特に1989年の日本GPで起こったアイルトン・セナとアラン・プロストの衝突事件が小松礼雄に大きな印象を与えた。

F1エンジニアになることを志した小松礼雄は、18歳でモータースポーツの本場、イギリスへと渡り、スポーツとエンジニアリングで有名なラフバラー大学で自動車工学を学んだ。

在学中にはロータスエンジニアリングでのインターンシップを通じて実務経験を積み、1999年に卒業すると大学院に進み、博士号取得に向けた研究を続けた。

大学院在学中には、F3カテゴリーのアマチュアレースでボランティアとして働きながら佐藤琢磨と出会った。これは小松礼雄にとって重要な転機となり、2人は英国F3チーム、カーリンで共にキャリアを築いていった。

博士号を取得し、就職を考える時期になると、TRW社からオファーを受けたが、経営陣の交代により実現しなかった。 また、ドイツに拠点を置くコリン・コレスのF3チームのレースエンジニアを狙って面接を受けたが、これも実現には至らなかった。

そんな中、F1キャリアへの足掛かりをもたらしたのは、佐藤琢磨から1本の電話だった。

佐藤琢磨からホンダ・レーシング・デベロップメントの当時社長を務めていた田中詔一を紹介されたことで、小松礼雄は2003年より、BARホンダのテストチームの一員として第一歩を踏み出した。

3年目を迎えた2005年にはタイヤ分析に重点的に取り組み、チームのパフォーマンスに大きく貢献した。

2006年にはルノーから声がかかり、フェルナンド・アロンソとチームがWタイトルを制したシーズンをタイヤエンジニアとして過ごした。翌年にパフォーマンス・エンジニアとしてレースチームの一員になると、ネルソン・ピケ・ジュニアやロマン・グロージャンなどのドライバーと3年間共に働いた。

2011年シーズン前にレースエンジニアに昇進すると、ヴィタリー・ペトロフとコンビを組み、メルボルンでの初レースでは共に表彰台に上るという快挙を成し遂げた。

2012年にチームはロータスF1チームへと改称。GP2チャンピオンとして復帰したグロージャンと再びチームを組んだ。

2人の間にはプロフェッショナルかつ個人的な友情が芽生えた。2013年には優勝争いを繰り広げ、9回の表彰台フィニッシュを達成した。それから2年後、小松礼雄はチーフレースエンジニアに昇進した。2人のパートナーシップにおける最後のハイライトは、2015年のベルギーグランプリで訪れた。グロージャンはチームにとってシーズン唯一の表彰台フィニッシュを果たした。

2016年にはハースF1チームが新規参戦を果たすと、グロージャンはリードドライバーとしてハースに移籍した。

小松礼雄も10年間在籍したエンストンのチームを離れ、グロージャンとともにハースに移籍し、チーフレースエンジニアに就任。サーキットでのエンジニアリング活動のすべてを現場で管理し、チームの英国拠点では、車両性能グループ、車両科学グループ、電気工学を担当した。

そしてギュンター・シュタイナーの後任として、2024年にF1チーム代表に就任した。