2020年F1オーストリアGPのグリッドセレモニーで反人種差別を訴えるため膝をつくF1ドライバーcopyright Daimler AG

反黒人差別運動に取り組むハミルトン「存在しない問題を生み出している」とのアンドレッティ発言に反論

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メルセデスのルイス・ハミルトンはInstagramを通して、マリオ・アンドレッティの「存在しない問題を生み出している」との発言に反論した。6度のF1ワールドチャンピオンは5月末に米国ミネアポリスで起きた黒人ジョージ・フロイド殺害事件以降、Black Lives Matter(BML、ブラック・ライブズ・マター)運動に積極的に関与し続けている。

ハミルトンはグリッド唯一の黒人ドライバーとしてSNSやデモ、コミッションの設立等を通して反黒人差別運動の啓蒙活動に取り組んでおり、7月19日にハンガロリンクで行われたF1第3戦ハンガリーGPの際には、レース前のセレモニーにおいて反差別のための十分な訴求の時間がなかったとして、F1上層部との話し合いに臨むと語っていた。

ハンガリーGPではレッドブル・リンクでの開幕2レースと同じように、F1ドライバー達がみな「End Racism」のメッセージが書かれたTシャツを着用(ハミルトンのみ「Black Lives Matter」のTシャツ)した。一部のドライバーは人種差別への抗議を表現するために膝をついたが、即座に国歌斉唱へと進行が移ったため、まとまりのなさを感じさせるものとなった。

F1とインディーカーでチャンピオンに輝き、インディ500とデイトナ500をも制したアメリカンモータースポーツの生ける伝説マリオ・アンドレッティはこの程、チリの新聞「エル・メルクーリオ」とのインタビューの中で、ハミルトンの言動と行為はスポーツに政治を持ち込むものだと語ったと報じられた。

左からマイケル・アンドレッティ、マリオ・アンドレッティ、マルコ・アンドレッティ
© Indycar / 左からマイケル・アンドレッティ、マリオ・アンドレッティ、マルコ・アンドレッティ

「私はルイスを心から尊敬しているが、なぜ大義を振りかざすのだろうか? 彼は常に受け入れられてきたし、みんなの尊敬を集めてきた」とマリオ・アンドレッティは語る。

「気取ってるんじゃないか、私はそう感じている。そして同時にそれは、存在しない問題を生み出している」

ルイス・ハミルトン擁するメルセデスAMGはハミルトンからの要請を受けて、人種差別に反対する姿勢を示し、チームの多様性向上を誓うべく、2020年型F1マシン「W11」を漆黒の「ブラック・アロー」に塗り替えた。重量規制をクリアするために塗装を剥がし、アルミの地肌そのままでレースに出走したという歴史的逸話から、メルセデスのマシンは伝統的に「シルバーアロー」と呼ばれているが、今シーズンに限っては黒一色にペイントされている。

漆黒のメルセデスW11をドライブするルイス・ハミルトン、2020年F1オーストリアGPフリー走行1にて
© Daimler AG / 漆黒のメルセデスW11をドライブするルイス・ハミルトン、2020年F1オーストリアGPフリー走行1にて

マリオ・アンドレッティはそんなメルセデスの取り組みについて「マシンを黒く塗って、一体それが何の役に立つのだろうか」と続ける。

「私はこれまで、様々なバックグラウンドを持つドライバーに会ってきたが、常に両手を広げて歓迎してきた。モーターレースにおいて色は関係ない。結果を出して自分の居場所を獲得しなければならないし、それは誰にとっても同じことなんだ」

マリオ・アンドレッティはモータースポーツ界に黒人ドライバーが少ない事を認めるが、それは多様性の欠如でこそあれ差別ではないと強調した。

ハンガロリンクでのレースを終えたハミルトンは、アンドレッティの発言を報じた記事のスクリーンショットに自らの見解を記し、それをソーシャルメディアにアップした。

ルイス・ハミルトンがSNSに上げたマリオ・アンドレッティの発言に対する反論

「残念なことに、今なお発言力を持つ年配の世代の中に、自分たちのやり方から抜け出せず、問題があることを認めることができない人がいるのが現実だ。繰り返しになるがこれは明らかな無知だ。僕が変化を求めて努力を続けることを止めることはない」

「学ぶのに遅すぎるということはないし、僕が常に尊敬していたこの人物が学ぶための時間を取ってくれる事を願っている」

アメリカを発祥とするBML運動の根底にあるのは、個人の偏見というよりも社会的な仕組みや制度といった構造により発生している差別を特に問題視しているとされるが、その点においてハミルトンが何を求めて運動に関与しているのかは定かではなく、両者の発言からは行き違いのようなものも感じられる。いずれにせよ、主観と主観のぶつけ合いが好ましい結果を生み出すとは考えにくく、メディアを媒介としたやり取りではなく直接対話が期待される。