
空力テスト制限(ATR)
空力テスト制限(ATR)とは、風洞テストおよびCFD(数値流体力学)シミュレーションによる空力開発の量を制限するF1ルールを指す。その肝は、コンストラクターズ選手権順位に応じた制限量の違いにあり、本質的にその目的は、チーム間のパフォーマンス格差の是正にある。
現代F1において、ラップタイムを最も左右する要素は空力=エアロダイナミクスだ。フロア、ウイング、ボディワークが生むダウンフォースと空気抵抗の差は、基本的にエンジン性能やドライバー能力以上に勝敗を左右する。その要となる空力開発を制限するのがATRだ。
ATRの導入により、F1の空力開発は「すべてを試す」から、「何を試すかを選択する」段階へと移行した。計算量の多寡ではなく、仮説の質が問われる構図となり、「限られたリソースをどう使うか」という知的なゲームへと性質が変化している。
- ハンディキャップ制度の仕組み
- 空力テスト期間(ATP)とは
- RATGによる厳密なテスト管理
- 制限付き風洞テスト(RWTT)の詳細
- 制限付きCFD(RCFD)の詳細
- ATRの対象外となる空力テスト
- 監視とペナルティ
Courtesy Of Honda
ホンダ・ダラーラDW12インディカーの空力テスト、2022年に米国オハイオ州に建設されたホンダのフルサイズ風洞「ホンダ・オートモーティブ・ラボラトリーズ・オブ・オハイオ(HALO)」にて
ハンディキャップ制度の仕組み
2021年シーズンより導入されたATRでは、チャンピオンシップの順位が低いチームほど多くのテスト時間が与えられ、逆に上位チームほどテスト時間が削減される「スライドスケール式空力制限」が採用されている。これにより、下位チームには挽回のチャンスが、上位チームには効率的な開発が求められる構造となっている。
各チームに許されるテスト量は、基準値(係数C=100%)に対して、チャンピオンシップの順位に応じた係数を掛け合わせることで決定される。2026年のレギュレーションにおける順位ごとの係数は以下の通りだ。
| 順位 (P) | 係数 (C) | 備考 |
|---|---|---|
| 1位 | 70% | 最も厳しい制限 |
| 2位 | 75% | |
| 3位 | 80% | |
| 4位 | 85% | |
| 5位 | 90% | |
| 6位 | 95% | |
| 7位 | 100% | 基準値 |
| 8位 | 105% | |
| 9位 | 110% | |
| 10位以降 / 新規 | 115% | 最も多くのテストが可能 |
1位のチームは基準値の70%しか使えない一方、下位チームや新規参入チームは最大115%まで許される。この差は決して小さくない。最下位チームは、1位のチームに対して約1.64倍もの開発が可能になる計算だ。
この順位(P)は、年に2回見直される。後述の「空力テスト期間(ATP)」における第1〜3期間については前年度のコンストラクターズ選手権順位が適用され、第4〜6期間については、第3期間終了日時点の順位が適用される。
空力テスト期間(ATP)とは
シーズンは以下の計6回の連続したATPに分割され、その各々においてテスト量や回数などの制限が設けられている。つまり、特定の期間に集中して開発を行うことはできない。
- 期間1:1月1日から第9週の終わりまで
- 期間2・3・ 5:それぞれ8週間
- 期間4:夏季シャットダウンを含むため10週間
- 期間6:12月31日まで
RATGによる厳密なテスト管理
ATRでは、空力テストに用いる3次元形状を「RATG」として定義している。これにより、「1回のテストで評価できるのは、1つの空力形状のみ」という思想が、制度的に組み込まれている。
以下の行為は、新しいRATGを使った別テストとしてカウントされる。
- ジオメトリの追加・削除・変形
- 異なる境界条件を用いて別形状を擬似的に再現する行為
- 複数のF1マシン形状を同時に含めること
例外として許されるのは、姿勢変化(車高・ロール・ヨー・ステア)や、規則で定義された可動ウイング部のみだ。
制限付き風洞テスト(RWTT)の詳細
copyright Formula One World Championship Limited
2020年型F1マシンの風洞実験50%スケールモデルのリアビュー
風洞設備での開発は、「制限付き風洞テスト(RWTT)」という形で規制されている。使用できる風洞は1チームに付き1基(FIAへの届け出が必要)に限られる。テストで使用する模型(モデル)や条件には、以下のような厳密な規定が存在する。
- スケール制限: 最大60%モデルまで
- 流速制限: 風洞内の最大風速は50m/s(無風状態での180km/h走行に相当)
- モデル制限: 1回の走行(ラン)につき使用できるモデルは1種類のみ。走行中に変更が許されるのは、タイヤの回転、車高やロール角の変更、ステアリング、DRSフラップの角度調整などに限定される。
基準値(係数C=100%/ランキング7位)のチームに許可される「ATP 1期間あたりの上限」は以下の通り。
- 稼働回数(風速が5m/sを超えた瞬間に1回とカウント): 320回
- 稼働時間(風速15m/s超で空気を流していた累計時間): 80時間
- 占有時間: 400時間
制限付きCFD(RCFD)の詳細
Courtesy Of Red Bull Content Pool
ファエンツァのファクトリーで設計業務に取り組むレーシング・ブルズのスタッフ、2024年5月13日(月)
コンピューターを使って空気の流れをシミュレーションする解析手法「CFD」にも制限が課せられており、こちらは「制限付きCFD(RCFD)」と呼ばれている。
一見すると、「高性能なコンピュータを所有しているチームが有利」に思える。だがATRでは、「計算資源の総量」に制限を設けているため、そうはならない。
そのための指標が「MAUh(メガ・アロケーション・ユニット・アワー)」だ。これは「CPUコア数 × 動作クロック × 実計算時間」を基準としたものだ。高性能CPUや大量のコアを投入しても、その分だけ消費量が増えるため、ハードウェア差による優位は得られない。
- 計算リソース:基準値(100%)の場合、1期間あたり6MAUhが上限
- ジオメトリ制限: 新規に計算に使用できるRATGは、基準チームではATP 1期間あたり2000個まで
なお、2028年1月1日からは、計算リソースとしてGPUコアの使用を許可する規定が導入される見通しだ。
ATRの対象外となる空力テスト
あらゆる空力関連テスト、風洞の使用が制限の対象となるわけではない。以下の行為は、ATRの制限対象外とされている。
- 実走行テスト:グランプリ週末や公式テストにおける実車走行を伴う空力データの取得
- 空力目的外テスト: 制動システムやパワーユニットの冷却系、ホイール、タイヤなど、空力を計測しない風洞テスト
- 設備の開発・メンテ:開発・調整のための風洞の稼働
監視とペナルティ
当然に、FIAによって各チームの空力テスト状況は厳しく監視される。チームは各ATP終了後14日以内に詳細なレポートを提出しなければならない。また、監査のために以下のデータ保存が義務付けられている。
- 画像データ: 風洞テストの各ラン開始時のモデル全体を捉えた高解像度画像
- メッシュデータ: CFD計算に使用された完全な表面メッシュデータ
もし制限を超過した場合、次のATPで使用可能な開発量が「超過分×10」以上削減される。ATR違反は、将来の競争力を直接的に失う極めて重いリスクを伴うのだ。