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ルーベンス・バリチェロ

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人物データ

名前
ルーベンス・バリチェロ / Rubens Barrichello
国籍
ブラジル
出身地
サンパウロ
ニックネーム
ルビーニョ、鉄人、セナ世代最後の男
生年月日
1972年05月23日 / 47歳
身長
172cm
体重
77kg
@rubarrichello
WEBサイト
barrichello.com.br

ルーベンス・バリチェロ(Rubens Gonçalves Barrichello)は、ブラジル・サンパウロ出身のレーシングドライバー。バリケロとも表記される。愛称はルビーニョ(Rubinho)=小さなルーベンスの意。身長は172cmと決して小柄ではないが、父と祖父も同じルーベンスという名前だった事に由来してるとされる。誕生日は父親と同じ5月23日。

1993年にジョーダンよりF1デビューを果たし、2011年を以てウィリアムズでF1でのキャリアに終止符を打った。F1通算322戦は歴代最多記録となっており「鉄人」と称される。F1引退後も精力的にレース活動に従事、インディカーや母国ブラジルのストックカー・ブラジル等で活躍している。2018年1月、首に良性の腫瘍が発見されたため手術を受けた。

rubens barrichello photocreativeCommonsGregHilde

47歳を迎えた2019年には、同年9月に開幕を迎える新シリーズCAMSオーストラリア S5000選手権への参戦が発表され、2012年のインディカー・シリーズ以来、実に6年ぶりにオープンホイールのシングルシーターに復帰する事となった。

趣味はヘルメット集め

F1ドライバーのヘルメットを収集することを自身の密かな楽しみにしている。そのコレクションはグリッド上のドライバーのほぼすべてを網羅するレベルでベッテル、フィジケラ、トゥルーリ、ウェバー、シューマッハ、バトン、クビサ、マッサ …、などをコレクションしているようだ。もちろんセナのヘルメットも所持していると誇らしげに語る。

フォーミュラ・フォード時代

1989年、16歳の時にブラジルからイギリスへ移住しフォーミュラ・フォードへ参戦。16歳ではイギリスで乗用車を運転できなかったため、父親の免許証を使っていたとかいないとか。

イギリスF3時代-1991年

1991年、19歳の時にイギリスF3選手権に参戦しタイトルを獲得。当時の史上最年少記録を樹立した。この記録は2004年にネルソン・ピケJr.に破られるまで保持されていた。この時F1チームからのオファーがあったが、翌年は国際F3000に参戦、ルカ・バドエル、アンドレア・モンテルミーニに次ぐランキング3位の記録を残す。

ジョーダン時代-1993年~1996年

20歳でジョーダンからF1デビュー。1994年の第2戦パシフィックGPでバリチェロは自身初となる表彰台を獲得するが、次戦サンマリノGPでは初日にコースアウトしてクラッシュし鼻骨を骨折。これがバリチェロのキャリアの中で唯一の予選落ちとなった。

スチュワート時代-1997年

ナンバー1ドライバーとしてスチュワートから参戦。スチュワートまでの7年間、年間ランキングにおいて唯の1度もチームメイトに負けたことはなく、その安定感と速さを評価され1999年末にフェラーリと契約。F1史上最も成功したシューマッハのチームメイトとなる。

フェラーリ時代-2000年~2005年

ルーベンス・バリチェロ
creativeCommonsPaul Williams

ブラジル人初となるフェラーリドライバーとなる。当初バリチェロは自身の契約はシューマッハとの「ジョイント・ナンバー1」で対等だと主張、しかしながら開幕直前にはその発言を撤回し実質ナンバー2であることを認める、という事件があった。

2001年には年間ランキングで自身最高位となる3位を獲得、翌2002年は4勝しランキング2位。しかしながら、フェラーリ時代のバリチェロはシューマッハのサポート役に徹し、決してシューマッハを抜くことをしなかったため『シューマッハの飼い犬』などと揶揄されたりしていた。象徴的なのは2002年第6戦オーストリアGP。

ファイナルラップまでバリチェロがトップを走るも、チェッカーフラッグ直前に2位のシューマッハにトップを明け渡すという一幕が。

このオーストリアGPの一連のゴタゴタがあったことで、フェラーリ、シューマッハ、バリチェロは罰金を課せられる事態に。この影響かヨーロッパGP、ハンガリーGP、イタリアGPではチームオーダーは発令されず自身が優勝を飾り、アメリカGPではチェッカー直前でシューマッハがバリチェロに抜かれる(意図的に譲ったのかは不明)などした。その後FIAによって2003年からチームオーダーが禁止されることになる。

ルーベンス・バリチェロ
creativeCommonsMaurizio Manna

しかし飼い犬もいつまでも飼われっぱなしではいられなかった。

2005年のモナコGPのファイナルラップでシューマッハに強引なオーバーテイクを仕掛けられたことを機に、「これからはマイケルと対等に勝負をする」と宣言。以降フェラーリ及びシューマッハとの軋轢を深めていき、この年を以てフェラーリに別れを告げた。フェラーリ時代の6年、シューマッハとの1-2フィニッシュの回数は24回に及び、F1史上最多記録となっている。

「僕よりもマイケルの方が速いのかもしれない。だが、もしも僕ら2人が虎のいる檻に放り込まれたとしたら、僕の方は生きて帰ってくるだろう。マイケルがどうなるかは分からないけど」

ホンダ時代-2006年~2008年

ルーベンス・バリチェロ(ホンダ時代)
creativeCommonsPaul Williams

フェラーリを離れたバリチェロは2006年ホンダに移籍。しかしこの時代のホンダはホントに何をやっているんだ!というレベルのひどいマシン、特に2007年のRA107は最悪でチームメイトのバトン共々苦労を強いられた。

ブラウンGP時代-2009年

rubens barrichello photocreativeCommonslipjin

2008年末のホンダ撤退発表により、新チームブラウンGPから参戦。開幕戦では2位に入り、優勝したバトンとの1-2フィニッシュでシーズンの幕開けをむかえた。ブラウンGPのマシンは、2008年のマシン開発を一切せずにその分の巨額のリソースを翌年のマシン開発にすべて注いだホンダが作り上げたもの。その速さたるや他のマシンを全く寄せ付けなかったが、ワールドチャンピオンの栄冠はチームメイトのバトンが手にすることになった。

ウィリアムズ時代-2010年~2012年

rubens barrichello photocreativeCommonsGregory Moine

2010年のベルギーグランプリで、F1ドライバーとして初となる通算300戦参戦を達成。前半はマシンに苦しむものの、ブロウンディフューザー投入後のヨーロッパGPではシーズン最高位の4位入賞を果たす活躍を見せ、以降マシン開発のか甲斐があり入賞を重ねた。チーム代表フランク・ウィリアムズは次のようにコメントしている。「ルーベンスがいなかったら、どうにもならなかっただろう。」

2012年シーズンのシートを獲得できないことでF1を去っていった。