オートモービル・クラブ・デ・モナコ(モナコ自動車クラブ)
オートモービル・クラブ・デ・モナコ(Automobile Club de Monaco)はモナコ公国におけるモータースポーツ統括団体で国際自動車連盟(FIA)のメンバー。F1モナコGPやラリー・モンテカルロを主催する。日本では「モナコ自動車クラブ」と記される事が多い。
設立は1890年と古い。21人のサイクリング愛好家が集まり設立された自転車競技者団体「公国サイクリングスポーツ協会(Sport Vélocipédique Monégasque)」を起源とする。
SVPは27年後の1907年8月28日に「モナコ自転車・自動車スポーツ協会(Sport Automobile et Vélocipédique de Monaco, SAVM)」へと改称され、現在の原型を形作った。
ラリー・モンテカルロ
1909年10月31日にSVAM会長に就任したアレクサンドル・ノジェスはアルベール1世の命を受け、公国初の国際的モータースポーツイベント「ラリー・モンテカルロ」を企画。記念すべき第1回大会が1911年1月21日から29日にかけて開催された。
パリ、ベルリン、ブリュッセル、ブローニュ=シュル=メール、ウィーン、ジュネーブの6カ所をスタート地点としてモナコを目指す第1回大会では、25馬力のターカット・メリーでパリを出発したアンリ・ルジェが平均速度13.8km/hで優勝を飾った。
この成功を受けてSVAMは以降、自転車ではなく自動車を中心に活動していく事を決定したものの、第一次世界大戦の影響で活動は一時完全に停止した。
1925年3月29日、SAVM会員55名が出席した臨時総会でノジェス会長は、クラブの規模拡大を受けて名称を”Automobile Club de Monaco”に変更する事を提案。無記名投票の結果、賛成49票、反対5票、棄権1票で採択された。
FIA加入のためのモナコGP
組織名称の変更を得て組織の将来を確かなものにすべく、FIAの前身である国際公認自動車クラブ協会(AIACR)への加入を計画するも、AIACR側はラリー・モンテカルロがモナコ国内で行われているレースではないと判断して申請を受理しない姿勢を見せた。
そこで浮上したのがモナコの町中でレースを行うという企画、つまり後のモナコGPだった。
当時クラブの総責任者を務めていたアントニー・ノゲスは2年ほど悩んだ末に、スポーツ面をルイ・シロン、技術面をジャック・タフに託し、本格的にプロジェクトをスタートさせた。
この結果、1928年10月18日にACMのAIACR加入が報じられ、その半年後の1929年4月14日(日)に、記念すべき第1回モナコグランプリが開催された。7カ国、6メーカー、16名のドライバーが参戦したこの大会では3時間56分11秒、平均時速80,194km/hで100周を走破したイギリス人、ウィリアム・グローバーが優勝を飾った。マシンは2.3リッターのスーパーチャージャーを搭載したブガッティ35だった。
第二次世界大戦の勃発と共にモンテカルロからエキゾーストノートは消え去り、10年近くに渡って空白の期間が続いた後、1948年5月16日にレースは再開され、2年後の1950年にはF1世界選手権シリーズの1戦として第11回モナコGPが行われ、ファン・マヌエル・ファンジオが優勝を飾った。