次はいつ? 70年の歴史で僅か5名…女性としてF1に初めて参戦したマリア・テレーザ・デ・フィリッピス
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これまで数多くの女性ドライバーがモータースポーツに参戦してきたが、女性として初めてF1に参戦したという決して破られる事のない唯一無二の記録を保持しているのは、マリア・テレーザ・デ・フィリッピスだけである。
「私は勇敢だったのか、無謀だったのか、それとも無鉄砲なだけだったか。どうぞあなたの好きにように呼んで下さい。私はただ全開で走るのが好きだったのです」
マリア・テレーザ・デ・フィリッピス(1926年11月11日-没2016年1月8日)
1926年ナポリ生まれの彼女が初めてレースに参加したのは22歳の時だった。10kmを争う1948年のサレルノ-カヴァ・デ・ティレーニ(ツーリングカー部門500ccクラス)でフィアット500を駆り、そのデビュー戦で優勝を飾って周囲を驚かせた。
幼少の頃からレースをしていたわけでも、様々なクルマをドライブしていたというわけではない。10代の頃は乗馬やテニスに熱中していた。
初レースでの勝利の美酒。これがデ・フィリッピスのレースに対する情熱に火をつける事となり、その後も様々なスポーツカーレースに出場。ペスカーラ12時間レースをはじめ幾度も表彰台の頂点に立った。
1954年のイタリア・スポーツカー選手権でランキング2位を獲得すると、これに目をつけたマセラティがワークスドライバーとして彼女を迎え入れた。
2リッター直列6気筒エンジンを積むマセラティ「A6G 2000」に乗り換えたデ・フィリッピスは、レコードタイムでカターニア・エトナを制した。この記録はその後、3年間に渡って破られる事はなかった。
1958年5月18日、デ・フィリッピスは前年にファン・マヌエル・ファンジオをドライバーズタイトルに導いたマセラティ250Fを駆り、F1第2戦モナコGPに初めてエントリーした。惜しくも予選通過とはならなかったが、この時同じくエントリーしていた後のF1総帥、バーニー・エクレストンも敗退を喫している。
同年6月15日のベルギーGPは予選での脚切りがなく、デ・フィリッピスはポールポジションのトニー・ブルックスから33.9秒落ちの19番手からスタート。24周のレースで2ラップダウンとなったものの、9台がリタイアを喫した事で10位完走デビューを果たした。
結局F1でのキャリアはエントリー5戦、出走3戦、と短命に終わり、ポイントを獲得する事はなかったが、1958年は多くのドライバーが事故死した悲劇的なシーズンで、ポルシェに乗り換えた翌1959年8月のドイツGPでは、サポートレースに参加した同じチームのジャン・ベーラが死亡。友人たちの死に打ちのめされたデ・フィリッピスはステアリングを置いた。
21世紀も四半世紀を迎えようかというこのご時世にあって、未だモータスポーツが男性優位である事を鑑みれば、当時の時代状況は更に厳しいものであった事だろう。デ・フィリッピスの引退後、次の女性F1ドライバー誕生には、1974年のレラ・ロンバルディまで15年を待たねばならなかった。
レラ・ロンバルディは1974年から1976年までF1に参戦し、ポイントを獲得した唯一の女性ドライバーという記録を残した。その後は3名がF1にエントリーしているが、1992年にブラバムからエントリーしたジョバンナ・アマティを最後にF1に女性ドライバーは生まれておらず、5名の中で決勝を戦ったのは共にイタリアで生まれたデ・フィリッピスとロンバルディの2人しかいない。
引退後のデ・フィリッピスは1960年頃にオーストリアの化学者テオドール・フシェックと結婚し家庭を築いた。レースとは無関係の生活を送っていたが、1979年に元F1ドライバーから構成される国際クラブに入会。1997年には副会長に就任し、2004年にはマセラティ・クラブの創設メンバーとなり会長を務めた。そして2016年1月に89歳でこの世を去った。
かつてF1に限りなく近づいたスージー・ウォルフは、怪我を負ったバルテリ・ボッタスの代役として2015年第2戦マレーシアGPでのデビューへの期待が高まったが、チームは外部からエイドリアン・スーティルをリザーブとして起用。F1に幻滅した彼女は、2015年11月にレーシングドライバーとしてのキャリアに終わりを告げた。
我々が次にF1で女性ドライバーを目にできるのは何時になるのだろうか。
アルファロメオは昨年まで開発ドライバーを務めていたタチアナ・カルデロンとの契約更新を現時点で発表しておらず、今季F1に関わる女性ドライバーはウィリアムズの開発ドライバーを務めるジェイミー・チャドウィックただ1人だ。