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耐久レースの頂点に君臨する「ル・マン24時間」は、モータースポーツ史上最悪の事故を起こしてしまったレースとしても知られている。
ルマン24時間はその名の通り、人間と車とが24時間昼夜問わず、最高速度320km/hで走り続ける世界で最も過酷な耐久レースである。その苛烈さゆえ、1923年の初開催以来、目を覆いたくなるような数多くの大クラッシュの舞台となってきた。中でも1955年の第23回大会での事故は、単一レースとしてモータースポーツ史上最も多い84名もの死者を出したとされる。
以下、ル・マン24時間レースで発生した大規模クラッシュ動画を厳選し3つ取り上げ紹介する。
史上最悪の大惨劇 – 死傷者200名
1955年の6月11日に行われた23回目のル・マン24時間レースは、死者84人、重軽傷者120名以上を出したモータースポーツの歴史に残る最大の悲劇として語り継がれている。(死亡者数については諸説有)
この悪名高いレース事故は、舞台であるサルト・サーキットの超ロングストレート”ミュルサンヌ”で起きた。
35週目の終わり、1958年のF1ワールドチャンピオンである英国人マイク・ホーソーンが運転するジャガーが、ピットに入ろうと急激にスピードを落とした。ホーソーンの真後ろを走行していたオースチン・ヒーレーのランス・マックリン(英)は、ジャガーを避けるために急ブレーキ。その更に後ろを時速240キロで走行していたメルセデスのピエール・ルヴェーが、挙動を乱したマックリンの車に乗り上げ舞い上がり、そのまま観客席に突っ込んだ。
レース観戦に訪れていたファン達の只中に落下したマシンは爆発炎上、これが被害の拡大につながった。この事故でメルセデスを運転していたルヴェーと83名の観客が犠牲となった。
当時はピットレーンもなければ、コースと観客席を隔てるバリアーもなく、安全対策はほとんど取られていなかった。この事故をきっかけに、亡くなったルヴェーのチームメイトであったジョン・フィッチは、”フィッチ・バリアー”と呼ばれる安全障壁を開発。モータースポーツ界に”安全対策”という概念を持ち込む大きな分岐点となった。
事故が起きた場所には、現在、マシンのスピードを抑制するためにシケインが設置されている。
恐怖のエアボーン3連発
1999年大会での出来事、メルセデス・ベンツCLRは、予選・決勝前練習走行・決勝レースの3回で立て続けにエアボーン・クラッシュを起こした。エアボーンは車体底部に風が入り込むことでマシンが宙を舞うクラッシュ、CLRは空中で2回転半程した後コース外に激突した。
《1回目》マーク・ウェバーのクラッシュ
予選2日目、後にF1デビューするマーク・ウェバーのメルセデス・ベンツCLR 4号車が、ミュルサンヌ・コーナーとインディアナポリス・コーナーの間で、エアボーン・クラッシュ。宙を舞ったレースカーは、後向きに回転しながらアスファルト路面に叩きつけられた。
《2回目》またもウェバー
決勝日朝のフリー走行。ミュルサンヌ・コーナー手前で、またもやウェバーの運転する4号車が宙を舞った。車体上面から路面に叩き付けられたマシンは大破。予選での事故では無傷だったウェバーだが、この2回目の事故で膝を負傷、決勝レースの欠場を余儀なくされた。
《3回目》決勝での大クラッシュ
レース開始から76周目、前を走行するトヨタTS020を追っていた3位走行中のメルセデス・ベンツCLR 5号車がこれまで同様に、前触れなしに当然空中へと舞い上がり、少なくとも2回転半しながらコース脇の林に落下した。落下地点がコース外であったため、後続車を巻き込まずに済んだのが幸いであった。ドライバーのピーター・ダンブレックは軽傷で事なきを得た。
いずれの事故も、マシンの空力設計上の欠陥が原因だったとされる。事故後、メルセデス・ベンツはル・マン24時間レースから撤退。サルト・サーキットは、事故現場となったミュルサンヌコーナー手前の勾配を抑制する等の対策工事を行うことになった。
僅か数十センチ先にはカメラマンが…
時速320キロでタイヤウオールに突っ込み粉々に吹っ飛んだアウディ。その数十センチ先には生身のカメラマン達の姿が映っている。
2011年の第79回大会、レース開始から50分が過ぎようとしていたその時、アラン・マクニッシュの運転するアウディR18が、ダンロップ・カーブ(1コーナー)を時速320キロで走行中、アントニー・ピエール・ベルトワーズのフェラーリ458と接触。コントロールを失ったアウディは、横滑りしながらタイヤウオールに衝突した。
マシンの残骸は元の姿をほとんど留めていなかった。映像には事故の衝撃で外れたタイヤが、あわやカメラマンを直撃しそうになっているのを見ることができる。幸いなことに、マクニッシュにもカメラマン達にも大きな怪我はなかった。