ジュール・ビアンキ
人物データ
名前 | ジュール・ビアンキ / Jules Bianchi |
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国籍 | フランス |
出身地 | ニース |
生年月日 | 1989年08月03日 |
没年月日 | 2015年07月17日 / 享年25歳 |
身長 | 174cm |
体重 | 65kg |
F1デビュー | 2013年 |
WEBサイト | www.jules-bianchi.com |
SNS |
ジュール・ビアンキとは、フランス・ニース出身のレーシングドライバー。2009年にフェラーリ・ドライバー・アカデミー初のドライバーとなった。シャルル・ルクレールとは幼馴染。
キャリアをスタートさせたのは2007年のカート競技。近年としては珍しくキャリアが短く、佐藤琢磨とダブって見えてしまう。2015年7月17日、2014年10月のF1日本GPの事故が原因でこの世を去った。享年25歳。
フォーミュラ・ルノー時代-2007年
2007年よりカートを始めたビアンキは、同年にフランス・フォーミュラ・ルノー2.0とユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0に参戦。
フォーミュラ3時代-2007-2009年
2007年の終盤フォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦。このころ就いたマネージャーはARTグランプリのボスであるニコラス・トッドだった。2008年フォーミュラ3・ユーロシリーズを3位で終える。2009年フォーミュラ3・ユーロシリーズでチャンピオンに輝く。
GP2時代-2010年~
creativeCommonsFabioCasadei
2010年からフォーミュラ3時のチームARTグランプリでGP2に参戦。2012年フォース・インディアがリザーブドライバーであったニコ・ヒュルケンベルグをレギュラードライバーに昇格させたのに伴って、その後任としてビアンキがリザーブドライバーに就任。同年それと平行してフォーミュラ・ルノー3.5シリーズにも参戦する。
マルシャF1-2013年~
マルシャF1チームと契約していたルイス・ラジアに代わりマルシャと契約。ラジアの契約破棄は、ラジアのスポンサーが期限内に資金の支払いを行わなかったためだと言われている。
2014年F1日本GPの大事故
2014年10月5日台風に伴った大雨のレース終盤の43周目、日没も近くなり暗くなってきたところにザウバーのエイドリアン・スーティルがコースアウト。マシン撤去のためにその区間には2本のイエローフラッグが振られていた。※これは「停止できるほどの速度まで減速」を意味。44週目マシンを撤去中のクレーン車に、コントロールを失ったビアンキのマシンが衝突。
すぐにヘリコプターで三重県の病院に搬送され一命を取りとめたが、翌年2015年7月17日地元フランスのニースの病院で息を引き取った。F1でのドライバー死亡事故は1994年サンマリノグランプリのアイルトン・セナとローランド・ラッツェンバーガー以来21年ぶりのこと。
ビアンキのカーナンバーだった『17』を永久欠番となり、追悼を意味する”#JB17“は今もなおドライバーのヘルメットやマシンに記されている。