2018年のF1ピレリタイヤ
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ピレリ

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ピレリ(Pirelli & C)はイタリア・ミラノに本拠を構える世界第5位のタイヤメーカー。ブリジストンに代わって2011年からF1に単独でタイヤを供給している。

1897年にバイクレースに参戦しモータースポーツへの関与をスタート。1905年のスサ・モンセニシオでのロードレースで正式な競技デビューを果すと、以降二輪、四輪の双方で数々を成功を収めてきた。

ピレリのマリオ・イゾラとF1のチェイス・ケアリーCEO、2020年F1アブダビGPにてCourtesy Of Pirelli & C. S.p.A.

ピレリのマリオ・イゾラとF1のチェイス・ケアリーCEO、2020年F1アブダビGPにて

F1参戦の歴史

第一期(1950-58年)、第2期(1981-91年)を経て、ブリジストンの後釜として2011年に3年契約でF1に復帰すると、2024年まで契約を更新した。DHL、エミレーツ、ハイネケン、ロレックス、そしてサウジ・アラムコと並び、F1との間でグローバルスポンサーシップ契約を結んでいる。

2020年以降の公式タイヤサプライヤーの入札には韓国メーカーのハンコックも参加したが、最終的に現在の体制が継続される事となった。

2021年シーズンに18インチ扁平タイヤの導入が予定されていたが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を受けて2022年に延期された。

活動 期間 概要
第一期 1950~58年 F1世界選手権開催初年度にアルファロメオ、マセラティ、フェラーリのサプライヤーとして参戦。1956年12月に撤退を発表。
第二期 1981~91年 トールマンTG181にP7ラジアルタイヤを供給する形で23年ぶりにF1に復帰。その後、オセラ、アローズ、フィッティパルディ、ミナルディ、ロータス、そしてブラバムBMWがピレリと契約を結んだ。87年と88年に2年間の休止期間を挟み91年を以て再び撤退。以降はラリーに集中する。
第三期 2011年~ 2010年6月に2013年までの3年間の独占供給契約締結を発表。20年ぶりに復帰を果たした

F1用タイヤの生産地

F1及びFIA-F2選手権用のコンパウンドはルーマニアのオルト県に位置するスラティナのファクトリーで製造されている(2020年3月現在)。F3用はトルコ。

2022年仕様のピレリ製18インチF1タイヤ5種類 (2)Courtesy Of Pirelli & C. S.p.A.

2022年仕様のピレリ製18インチF1タイヤ5種類 (2)

歴史~創業から

ジョバンニ・バティスタ・ピレリ(1848年12月27日生)により1872年1月28日にミラノに「G.B. Pirelli&C.」が設立された。当初は伝動ベルト、バルブ、絶縁体など、蒸気機関や鉄道用の産業用工具、 機械関連のさまざまな製品を中心に生産活動を行っていた。

その後、フランス人のエメ・グラールに代わって共同経営者となったフランソワ・カサッサの指導のもと、玩具、スポーツ用ボール、レインコートなど、消費財の生産に力を入れ始め、1879年にはケーブル分野に進出した。

この分野はそれまで英国が独占していたが、海底電信ネットワークと鉄道電化のための政府契約を獲得。その後も、ナイアガラの滝、ナイル川、スペイン、アルゼンチン、アメリカ、フランスでのエネルギーケーブルの契約などを獲得していき、欧州大陸のリーディングカンパニーにのし上がった。

20世紀初頭、自動車産業の発展を受け1890年に二輪車用タイヤの生産を開始。1901年には自動車用タイヤの生産にも着手した。

1907年の「北京-パリ大陸横断ラリー」では、スキピオーネ・ボルゲーゼ王子とジャーナリストのルイジ・バルジーニがピレリタイヤを装着した「イターラ 」で17,000kmの未舗装路を走りきり、他のチームを20日以上引き離してゴールを果たした。

1902年にバルセロナ近郊のビラノバ・イ・ラ・ヘルトルにスペイン工場がオープン。初の海外に進出を果たすと、1913年にはイギリスのサウザンプトン、1917年にはアルゼンチンで生産を開始した。

第一次世界大戦が勃発すると軍との契約により生産を増強。終戦後はケーブル技術の優位性から世界各地でライセンスを取得し、新たなタイヤ工場を次々と建設していった。

1922年にミラノ証券取引所に上場。1929年にはウォール街で上場し、アメリカの証券取引所に上場した最初のイタリア企業となった。

1932年に創業者のジョバンニ・バティスタが他界すると、息子ピエロとアルベルトがそれぞれ会長と副会長に就任した。

第二次世界大戦が始まると、タイヤ生産は軍用、特に大型車用へとシフト。ドライバーのアルベルト・アスカリとピレリを装着したマシンがグランプリや世界選手権で42勝を挙げるなど、カーレースの世界でもその名を知られるようになった。終戦後にはラジアルタイヤを発明。1951年にはチントゥラート・ピレリで特許を取得した。

1956年、ピエロ・ピレリが他界すると会長職は弟のアルベルトに引き継がれ、その息子のレオポルドが副会長に就任。1965年にアルベルトは会長職をレオポルドに譲り、レオポルドは25年に渡って会社のトップに立ち続けることになった。

1960年に建築家ジオ・ポンティの設計による新本社ビル「ピレリ・スカイスクレイパー」がミラノに落成した。

1980年代、ダンロップとの合併が不成立に終わった後、ピレリは技術革新と国際化の道を歩み続けた。この時期、ドイツのメッツェラー社(モーターサイクル用タイヤ)とイギリスのスタンダード・テレフォン・ケーブル社(地上通信用ケーブル)を買収し、モーターサイクル用ラジアルタイヤMP7と、転がり抵抗の少ない自動車用ラジアルタイヤP8を開発した。

1985年、ピレリはスーパータイヤP Zeroを設計し、25年ぶりにフォーミュラ1に復帰。イギリスのトールマン・チームにP7ラジアルを供給し、ブラバム、ロータス、ベネトンといったチームと1991年まで契約した。

1988年にアメリカのアームストロング・タイヤ・カンパニーを買収。タイヤ事業におけるすべての資本はピレリ・タイヤ・ホールディングにまとめられた。1990年代前半には市場の不況とコンチネンタルAGの買収計画不成立の結果として、企業および財務のリストラを余儀なくされたが、辞任したレオポルド・ピレリの後任として1992年に経営に加わったマルコ・トロンケッティ・プロヴェーラの手腕により再建に成功した。

高性能タイヤの自動生産のためのMIRSTM生産プロセスの特許を取得し、2001年にMIRSTMで生産された最初のタイヤと、新しいランフラットテクノロジーを発表した。

2001年には不動産セクターの成長を背景にPirelli REを設立し、2002年に上場。同年にはアパレルラインのピレリPzeroを立ち上げブランドを強化した。現在はPirelli Designがその役を担っている。

2004年にはブロードバンドとフォトニクスの分野でピレリ・ブロードバンド・ソリューションズを、再生可能エネルギーと環境の分野でピレリ・アンビエントを立ち上げ、更にはスーパーバイク世界選手権の単独サプライヤーとなった。契約は2023年まで継続され、国際的なモータースポーツの歴史の中で最も長いものとなった。

2005年にケーブル部門をゴールドマン・サックス証券に売却した後、中核となるタイヤ事業に集中。不動産事業とブロードバンドソリューション事業からも撤退した。

2007年1月23日に名誉会長のレオポルド・ピレリが82年の生涯を閉じると、その翌年にピレリの遺産を保護・強化し、企業文化を広めることを目的にピレリ財団を設立した。

2015年、古参の株主であるカムフィン、ケムチャイナ、Ltiがマルコポーロ・インダストリアルを通じてピレリの上場廃止と会社再編を目的とした公開買付を開始。産業用タイヤ事業を切り離した後、 2017年10月4日に証券取引所に復帰。自動車、オートバイ、自転車用タイヤ、特に技術的内容の高い「ハイバリュー」セグメントに焦点を当てた「純粋なコンシューマー向けタイヤ企業」に変貌を遂げた。